『天国と地獄』 

●うーむ、黒澤作品の名作、邦画の名作として名高いが、今また再見してみると、ちょっとなぁという部分も見えてきた。映画は作られた時からフィルムに写しとられた絵として変わりないが、見る側の人間は日々色々と確実に変わっていっている。それが同じ映画を見ても、その時々で受けるものが変化する要因であろう。

●もっと酷い事件、残忍な事件、巧妙な事件、そういうものが溢れてしまい、そこに感覚を慣らされてしまった今、この作品の描いていた犯人や事件の色が薄れてしまったのかもしれない。

●会社重役の息子と間違われて誘拐されてしまった運転手の息子。そして掛かってくる脅迫電話。刑事や周りの人物は「鬼畜生だ!なんて卑劣な奴だ!許しちゃおけねぇ」と話している.
誘拐という非道な犯罪を犯しているのではあるが、映画として見た場合、この脅迫電話の段階では畜生のような卑劣な犯人というイメージが出てこない。出てくるのは巧妙に誘拐作戦を立てた知能犯というイメージだ。子供を殺すだろうなどとは会話の中から伝わってこない。いや、この犯人は子供を殺すことはないだろう。子供を利用して巧みに現金を奪い取るだろう・・・そういうイメージが頭の中に出来てくる。
だから、ストーリーの中で役者が演技で出そうとしている犯人のイメージと、「畜生だ!」というセリフが作り出すイメージにギャップがあるのだ。

●犯人の心理や捜査の方法など綿密に組み立てられた作品だとも言われるが・・・・それも今となっては普通に感じる。犯行心理や犯人の性格の深掘りはそれほど深妙だとも思えない。犯人探求の捜査方法、駆け引き、犯行心理の推察なども、この時代としては目新しく驚きだったのかもしれないが、今となっては犯罪ものとしては平凡なストーリーだ。まあ、多くの監督や脚本家がこの作品をお手本とし、模倣しそれを越えていったという事実が有るかもしれぬが。

●重役の家でのストーリー展開はどうも舞台演劇を見ているかのようだ。広い居間に運転手やら妻やら刑事やらが居て、演技をしているわけだが、その役者の配置の妙だとかよりも、動き自体が少なすぎる。そして演劇を観させられているかのようで映画的興奮が無い。運転手のセリフや動きなどまるで舞台演劇そのものだ。
黒澤監督の作品はそれこそ「七人の侍」にしても「隠し砦の三悪人」にしてもダイナミックな動きで、これぞ映画!映画でなければ表現できないような絵を見せてくれる。『天国と地獄』は特に前半部分は映画としてはどちらかと言えば小津監督の手法に寄ったような感じがあり、黒澤監督独特のダイナミックなエンターテイメント性が少ない。黒澤監督はもっと動きの有る、カメラも存分に振り回した驚くような映像をとったほうが絵が生き生きとする。『天国と地獄』はどうも本来の黒澤監督らしくないと感じてしまうのである。

黒澤明には現代劇よりも時代劇の方が水に合っている。そう思う。

●なんにしても三船敏郎演じる権藤家居間でのシーンはどうにも歯痒い。運転手の演技も舞台演技だ。カメラワークで映画的にも出来たのであろうが、敢えて余り移動撮影を入れず、カットを多用せず真っ正面から撮ったすたいるは・・・・黒澤らしくないと思えるのだ。

●前半は三船敏郎が主役、それがいつのまにか後半には仲代達矢の刑事が主役に切り替わっている。一本の映画のなかで中心となる人物、主役が切り替わるのは見る物を混乱させるし、脚本として良いものではない・・・とされているが、そこは流石黒澤と黒澤組の脚本家。なんら破綻もなく、却って盛り上げる展開を見せつけてくれる。

●全体を見渡せば三船敏郎が主役として動く前半よりも、仲代達矢が主役となる後半の方が面白い。前半はまだるっこしい。なんだか詰まらないなぁと感じながら見ていたのが、いつの間にか仲代達矢を中心とする刑事劇に切り替わっていて、どんどんとストーリーに引き込まれていく。面白いのは後半である。

●横浜黄金町は40年以上前はこんなに荒廃していたのかねぇ? とちょっと驚く。日本がこんな状況だったとは信じられないが。それはちょっと脚色しすぎてる部分であろうな。

●犯人は捕まるが、その犯行動機に今一つ納得できない。切迫感もない。インターン医学生がそんなに貧困ではなかろう。その辺が合理性に欠ける。犯人の心理も、その思いもどうもピリピリ焼き付いてこない。

●最後で犯人は叫ぶが・・・・うーん、だからってこの犯罪映画の訴えようとしているものが心にドスンと届いてくるわけでもない。

●後半部分の技巧は確かだが、今の時代では手を上げて賞賛するほどのものであろうか? と思ってしまう。

●時は流れたのだ、沢山の水が橋の下をながれていったのだ。自分にとってのこの作品は今の時代となっては、過去を振り返る一作という位置に座する。