『陰日向に咲く』

幻冬舎、芸能人、フジテレビ(に、限らず他のテレビ局も)という組みあわせはどうにも好きになれない。どうも裏に金儲けの話しがチラチラしているようで嫌なのだ。兎にも角にも、流行りの人間に便乗して、話題をつくって、宣伝して、そしてヒットを強制的に作るという感じだ。話題の本もやたら衆目を集めるようなタイトルを付けて、兎に角中身を読む前にイメージで買わせてしまえ。という感じを受ける。
自分自身何度か騙されたなという本がある「祇園の教訓 昇る人、昇りきらずに終わる人 」・・・・タイトルにピクンと来て興味をもって読んだが、なんだこれは全然教訓もないし、昇る人と昇りきらずに終わる人の違いやその人から受けた印象など、このタイトルからそれを知りたいと思った部分にはほとんど触れられていない。多くの人はたぶんそこを知りたいと思ってかうのだろうけど、思い出話の本であった。さも「良いタイトルを付けたのは私たちの巧さです。中身をそのまま表したものではないです」「どう捉えるかは読者の判断です」とでも言って来そうである。「ヤクザに学ぶ交渉術」「ヤクザに学ぶ指導力」なんて本も巷の多くの人に「あのヤクザの交渉術はどういうテクニックなのか知りたい」と思わせるタイトルを付けておきながら中身はだらだらと得意自慢話が続くものだった。

幻冬舎の作品にはどうもこんな風に騙しの要素が入っている・・・・・そういうイメージを自分は持っているから、クレジットにこの会社の名前がでてきて更にテレビ局なんかが並記されていると、「あやしいねぇ、騙されないようにしないとねぇ」と思うのである。
注1)もちろん、私の個人的な意見であるということは明記しておく。(苦笑)
注2)『眉山』は幻冬舎、芸能人、テレビ局という拒否パターンの典型であったのだが、非常に良い作品であったということも書いておく。

劇団ひとりはこれまでの活動を見ているとなかなか頑張っているな、面白い存在として捉えていた。こういった小説を書いていることは知らなかったが、彼の作りだした原作の世界がどういうものなのか? ちょっと見てみてもいいか? という気持ちで見てみることとした。

●映画全体は、どうしょうもない人間、会社の人に迷惑までかけてもギャンブルから足を洗えない人間、浮浪者、浮浪者の中で自分の何かを変えよう賭している人間、どうしても浮き上がれない人間、そう、悲しくて救いがたいような、最下層のどうやって生きていったら良いんだという人間のエピソードの積み上げである。映画全体がそいった悲しく救いがたい人たちのエピソードをモチーフとして、その集合体としてなりたっている。

●こういう映画は見ていて辛い。救いようのない状況の人々をこうして並べていくなんてのは見たくもない。

●最後にはそういったモチーフがヒモを束ねるように繋がってラストを飾る。これは他でもかいているが、明らかに「マグノリア」で使われた手法であり「クラッシュ」でも同じような脚本手法が使われた。だが、この映画では全体の練り上げがなっていないからラストにハッとするような驚きがこない。

●どんな映画でも一箇所ぐらいは良いところはある。泣かせるところはある。そういう状況とそういう泣きを誘う演出があればラストにジワっと来させるくらいのことは出来る。だからそこだけを取って感動したなどというのは浅はか。作品はトータルなクオリティーで語られなければ。

●ラストでほんの少し救われないストーリーに救いを与えている・・・・・だがそれだけだ。ここまで息苦しいストーリーを並べておいて最後に「きっといいこともあるよ」「ひとりじゃないんだよ」では小学生並の結だ! たったそれだけのラストで心が揺さぶられるか? 散々悪事を働き人を殺し、極悪なことをして観客の感情を高めておいて、最後にそいつをやっつけて勧善懲悪、結果オーライとするような短絡的な刑事物や、サスペンスもの、ホラーものとなんら変わりない。

●悲しく救いがたい人々を映画の中にうつしていながら、それぞれの人やその状況に対する心の入り方は希薄である。単なる映画を作るうえでのストーリーとしてしか扱っていない。

●途中であきれて眠くなってしまった。

宮崎あおいだけは一人だけ、悲しくも悲惨でもない存在。全部の役者のなかで宮崎が演技といい存在の持つオーラといい輝いている。今1番に旬の女優でもあるのだからだろう。宮崎の演技は開放的で、明るく、そして可愛らしくもあり、悲惨さなど微塵も感じない。演技が巧いだけでなく存在そのものが今そういう状況なのであろう・・・・・・だから、この映画に置いては宮崎はベストな役者として輝いているが・・・・ミスキャスティングである。

平山あやはなんとなく今の役者としての実情と重なる部分があるようで痛々しい。細川たまきもストリッパーで悲しき人生の週末を迎えるという役には似付かわしくない・・・・・ミスキャストはそこらじゅうにあるな。

●映画として、何を伝えようとか、何を表現しようとか、そういった一本の骨が入っていないような映画なのだ。こういうふうにカナシイ話しを沢山あつめて、最後に少し希望を持たせて終わらせれば客は感動するだろう。そういう魂胆で作られた映画、ラストにウブな観客を少し涙ぐませられたら大成功と考えて作られたような映画・・・・・と思う。