『サウスバウンド』 

森田芳光の監督作品ではもうずっとまともなものがない。以前にも同じことを書いているが本当に雇われ監督化している感じを受ける。(間宮兄弟も森田監督作品・・・・・)

●この映画は小説のページにある文字が見えるような映画である。「たぶんこのシーンは小説ではもう少し面白く書いてあるんだろうなぁ、もっとギャグっぽく言葉が並べられているんだろうなぁ」というふうに、小説ではこうだったんじゃないかなぁと文字の流れを想像してしまうのである。つまり、小説なら面白く読めているだろうなと映像イメージが文字へと逆光する。文章が動く映像である映画に昇華されていない。小説は文字から場面場面のイメージを膨らませて読むわけだが、映像はいきなりイメージを観るものに突きつける。それなのに映画を観ていて小説の文字の流れを想像してしまうというのだからそれだけ映画としてダメだということである。

●ナンセンス、ナンセンスと連発する元運動家の親がいきなり西表島に移住して、しかも島の先祖の末裔で、今度はそこで土地開発の企業と争うというストーリーも小説であったらもまあ個人個人で絵を想像して面白くイメージするのかもしれないが、それがそのまんま映像となって観せられてしまうと、この映画のストーリー自体がナーンセンスと思えてしまうのである。

●あまりに破天荒でめちゃくちゃな生き方をしている親とその家族の話は、それがリアルな映像となってしまうと現実とのギャップ、ナーンセンスさがあまりにも顕著に見えてしまって、こんなこと有りえないとシラけてしまう。そう言った意味では、この小説はすっ飛び過ぎているから実写映画には向かなかったと言えるのではないだろうか。

●それを映画化してしまったわけだから、映画として観るしかないが、前半の東京編とも言うべき部分は実に退屈。いじめられる側の子供、いじめる側の手下になってしまう子供、復讐でやっつけられてしまういじめる子供。そんなかんながあって、元活動家のお父さんは東京暮らしをあっさりやめて、西表島に移住する。ありえないというか、あまりに話しが短絡的すぎる。西表島に移住するまでの前半40分は非常につまらなくて欠伸が出るような内容。「この部分があるから後半が生きるのだ」という効果があるわけではない。ばっさりこんなどろどろした下らない部分は切り捨ててしまってもよかっただろう。(原作の映画化ということで監督は原作通りにストーリーをなぞってるののかもしれないが)

西表島に移住してからの話しは少しは観れるようになる。だが、この部分も子供たちが最初は慣れないのに徐々に地元に馴染んでいく、というありきたり過ぎる話し。船をもらって家族で海に出ていくシーンとかは少しはいい感じだけれど、あまりに表現がステレオタイプ

●いわゆる脱都会、沖縄移住というそれこそ最近大流行りの行動様式を凝りもせず短絡的に映画化してるのか? と思いきや、安保運動や土地開発など少しはスパイスが効かせてあるところは映画としてちょっとは救われる。

●沖縄の美しい海を舞台としているのに、後半部分の映像はその美しさが全然出ていない。撮影、光の具合、監督の指示に美しさを取り込もうという意志がなかったからこういう何でもない精彩のない絵になってしまうのだろう。

●ラストに至っては、土地開発会社と警察の家屋明け渡しの強制執行に歯向って逮捕されるが、そこから逃げ出して、夫婦だけで船に乗りどこかの海に逃亡していくという、これまた飛んでもない締括り。「八重山の海ならどこでも生きていける」なんてセリフも出ていたが、これまたなんと短絡的でナンセンスなストーリーなのか? 現実の矛盾、困難に立ち向かったけどダメでどこか理想郷に流れていくというファンタジーならこういったラストもあるが、この映画はファンタジーとして作られていないだろう。(小説はファンタジーと捉えることも出来なくはないが)

●あちこちの小さい書店の窓ガラスにこの映画のポスターが張ってあるのが見受けられた。ただし、何も知らない人に「映画を観てみたい」と思わせるようなポスターではなかった。豊川悦司がどこか彼方を指差しているビジュアルにサウスバウンドとタイトルが書いてあっただけじゃまるで映画が見えない、興味も喚起されないだろう。

●主題歌の中島美嘉も意味がない。ソニーミュージックが製作委員会に名前を連ねているからだろうが、映画と歌がまるでリンクしていないのだ。

森田芳光は監督としてもうずっとダメ。過去に家族ゲームという先鋭的な作品を生んだことが却ってこの監督をダメにしているのかもしれない。邦画の監督には普通には殆ど名前も知られていないような人が多い。いわゆる雇われ監督、職業監督もいるし、新しい地平を目指している監督も居る。森田監督は名前が売れている、売れてしまっているのに反してやっていることが極めて保守的な職業監督的でありすぎる。この監督の新しい作品に新しい何かを期待する人も多いのだけれど・・・そろそろそういう期待は諦めたほうがイイのかもしれない。

《2010/11/11 追記
・沖縄フリーク系の知人から「『サウスバウンド』読んだら面白かった。面白くて一気に読んだ」という話が来て、映画には否定的だったので読んでいなかった原作を読んでみた。
・500ページを越す分厚い本にちょっと辟易。余り厚い本は読むのにかなりパワーが必要だし時間も掛かるので正直敬遠しがち。その点映画は2時間で完結するから簡単気楽、読書よりも遥かにお手軽なのだ。
・映画でも第一部の東京の部分が気に入らなかったが、小説でも中野に暮らしながらイジメや中野ブロードウェイの話は余り面白くない。後輩の活動家が人を殺してしまう話だとか映画では描かれていないシーンも多々ある。しかし前半の東京編とも言える部分は今の暗い世相を写しているようで暗い。読んでいて面白くも楽しくもない。
・余り指摘されていないようだが、この小説、視点が混在している。基本的に二郎という小学生の視点で描かれているのだが、同じストーリーの流れの中で時として唐突に二郎の視点で描かれていたものが第三者の視点、つまり神の視点になってしまう部分が度々出てくる。これははっきり言って読んでいてとても感じが悪い。いきなり視点が変わるので脳みそがクイッと捻られたような不快感が頭のなかに湧いて出てきてしまう。ちょっとこれは小説としてオカシイのではないだろうか?
・後半の沖縄に場所が移ってから話はキラキラと輝き出す。前半の鬱々とした話が一気に吹き飛び前へ、上へとどんどん伸び広がっていくような爽やかなストーリーに変化する。詰まりながら読んでいた前半と比較して後半はスイスイと楽しんで読むことができた。
・小説は二郎という小学生の立場から子供社会の側面、大人社会の矛盾、偽善を描いているのが面白い点なのだが、映画は豊川悦司演じる父親の行動ばかりを追いかけているかのようで、原作小説と話の描き方が大きく異なる。
・原作小説の中でじんわりと、ジョークで包みながらも辛辣に展開されていた社会批判、体制批判、政治批判、制度批判などは映画のなかでは大部分削られやんわりとした差し障りのない刺のないものになっている。これは映画だから仕方ないのかもしれないが、それによって原作の持っていた生きの良さ、キラっと光る切り口の鋭利さなどは映画では殆どなくなってしまっている。それが映画の面白くなさに通じているのだろう。
・今の支配政府、支配組織、支配体制の批判、それを面白いストーリーの中に埋め込んで展開するこの小説は映画と違ってなかなか面白かった。それは作者の主張でもあるのだろう。しかしそれをストレートに文字にしても、小説にしても読まれない、売れない、いや出版さえされないかもしれない。
・今流行の沖縄というエッセンスを絡ませ、アカハチの乱というモチーフにも結びつけ、社会批判的内容を巧く物語に載せて展開したこの小説はなかなかの考えられた技巧だ。
・政府に対する納税拒否という反抗は、ソローの『市民的抵抗の思想』の考えを引用しているのだろう。作品中で西表のジャングルの中の生活を「森の生活」と表現している部分があった。
・小説発表から5年、映画公開から3年経過して初めて読んだ「サウスバウンド」だが、書き下ろし連載として始まった前半の東京部分はどうもまだ迷走し足元が定まっていない感じがするのだが、後半は非常に面白い作品なっていた。
・そして映画は、この小説を消化し、映像に昇華させる程の段階には達していなかったと言えるだろう。

《2010/11/13》
・確認という意味もあって映画を再見。改めて観たが、この映画は本当に酷い。原作のエピソードをところどころつまみ出して繋いでいるだけといっても過言ではない。
・2007年に劇場で観た時も、この映画の出来には腹を立てていたが、今回再見して原作小説とのあまりの差、まったく話としてなりたっていない映画のあまりの酷さに少々呆れた。
・今後もさして話題になることもない映画だろうが、稀代の駄作と確信。「蒼き狼」と同じくらい酷いな、これは。