『包帯クラブ』 

●「あんた、重いよ」・・映画の最初の部分でワラ役の石原さとみがディノ役の柳楽優弥に突きつけるセリフ。そう、その言葉通り、この映画はかなり「重い」。人気の俳優をキャスティングし、宣伝も何か面白そうな「包帯クラブ」という部分で引きつけている。メインビジュアルも役者がずらりと横に並んで笑顔を見せているものを使っている。HPのトップビジュアルも健康そうな男女が仲良く並んで笑っている写真だ。ちょっとギャグっぽい、なにか面白そうな映画という印象を受ける・・・・が・・・・・そんなイメージとは相反して相当にヘビーな映画だ。

石原さとみ柳楽優弥の二人の個性が強烈にこの映画を引っ張っている。この二人あっての映画になっている。

●「包帯クラブ」という名称やその存在はこの作品の中ではテーマでもなく、主体でもなく、一つの大道具なのだな。ベースに流れているストーリーは「包帯クラブ」ではなく、様々な悩みや苦しみを抱えながら生きている高校生の葛藤である。

●相変わらずであるが、原作は読んでいない、見るまでしらなかった。(ほんといつもこれだなぁ)、ちょっと作者のコメントみたいなものをよんだが、
「自分の伝えたい普遍的(国際的)なことがより世界に向かって発信されやすくなる」・・・・ということだが、これはディノの語る世界中には苦しんだり、バクダンを家に打ち込まれたり、泥水をすすったりしている人たち・・・のことなのだろうか? 原作を読んでない自分にとってはこの映画からそう言った世界に発信するような大きなものまでは感じられなかった。セリフとしては少し語られていたけれど。映画は原作の小説とは表現として共通の部分もあるが・・・別ものと捉えておくべきか?

●映画を見ていてこれほど「この先の展開はどうなるのだろう」とドキドキしたのは本当に久し振りだ。殆ど次が読めない、そう映画の筋が先読みできない。だから観ていて非常に期待感が出て、非常にドキドキして鑑賞した。この次はどうなるのだろう、どうなるのだろうって、こういう感じを持った映画も非常に珍しい。

●今鑑賞を終わって改めてストーリーを振り返ると、そのストーリーとかエピソードを端的に見ると、割と表面的であり、エピソード事態は深堀もされていないし、エピソードの上っ面を軽くかすめているという程度のものだ・・・・だが、観ていた時はその上っ面だけのようなエピソードに、深堀されていない、ただ有ったことをなぞっているだけのようなエピソードの一つ一つに、心が揺さぶられた。涙がジワっと浮かんでくるものも有った。

●少女が連れ込まれ襲われたという廃虚となったレストラン。その内部は落書きやペンキ、そして廃物でワザとらしすぎるセット演出だ。幾ら何でもこんなこと無いだろうって思った。しかも放置してあるイスにはこれまたわざとらしくはぎ取られたままのようなブラジャーまで掛けてある。「いくらなんでも事件が有った場所がこんな状態になってるはずないじゃないかぁ」と白々しく思うのであるが、その後ギモが提案する・・・・「この場所のお葬式をしてあげよう」と・・・・。その言葉にドスンと胸を打たれる。皆でその廃虚のレストランにあったイスや色んなものを外に運びだして火を点けて燃やす。それがこの場所とこの場所に絡まる悪い思い出への葬式であり、その傷口への包帯クラブの手当てなんだという。

●悪い思い出の場所にあったものを燃やし悪い思い出へのお葬式を行っている火の向こう側に包帯クラブの面々が写った写真がネットに公開される。病院のベットで一人重く沈んで暗く落ち込んでいた少女が、ベットの上のノートパソコンでその写真みる。じっと見てそして涙を流す。今まで食べようとしなかった病院の食事がノートパソコンの傍らに置いてある。看護婦がその手付かずの食事を下げようとすると、少女はそれを奪い「私食べますといって必死に食べはじめる」・・・・・このシーンはそれこそべたなんだけれど・・・・感動した。涙が滲んだ。

●この映画は非常に不思議だ。ストーリーや演出の当たり前、ありきたりさは目に見えているのだが、その裏に流れている哀しい事件や思いが画面を見ていると映画とは別に「きっとこんなことが有ったら哀しいよね、哀しすぎるよね」とスクリーンから滲み出て心に浸透してきて・・・哀しくなって涙が滲んできて、ジンと感動してしまう。

●なんでだろうなぁ? この映画の登場人物一人ひとりがものすごく真正直でひねてなくて(ディノはひねているけどそれは隠れミノとしてつかっているものだ)実直に生きている。普通にまっすぐに生きている感じがする。この年代の頃って、色んなことに悩んだり、凹まされたり、幻滅したり、絶望したりしていたけれど、それはそのまっすぐさあってのものであったと思う。

石原さとみも、柳楽優弥田中圭も、貫地谷しほりも、関めぐみも、佐藤千亜紀も、この若い役者すべてが、なんだか指示された演技をしているというのではなく、この年齢のこの時代が持っているひたむきさや、いやになるような真っ直ぐさをそのまま役に反映させて、この年代だけが持つ意識せずに出てくる正直で真っ直ぐすぎる輝きを、素のまま出しているように思える。だから包帯クラブの一人一人がものすごく個性豊かでそしてもろくて、映画の役ではなく現実そのままの高校生の男女に思えてくるのだ。

●何度も繰り返すが、この映画は取っても珍しいと思う。演技演出では出てこないもっと素晴らし、本当のこの年代がもっている雰囲気をそのまま映画の中に切り取ってしまっているのだ。それはこの役者たちの素晴らしさと、監督のどうやったかわからない魔法の演出があったからなのではないだろうか?

石原さとみはちょっと丸くて今まではどちらかと言えばカワイコブリッコ的なキャラであったが、この映画においてはちょっと拗ねた生意気な高校生を演じている・・・いや、これは石原さとみの地のままなのかもね。セリフも今どきの高校生の会話というところを明確に捉えていて実にストレートで変。これは脚本家が相当勉強して努力して作ったセリフであろう。

●デパートの食品売り場でソーセージか何かの試食販売のアルバイトをしているワラとタンシオの会話がとてもシニカルでグサッとくる。
「私って大学に行かないでこのまま就職して年をとってもここでこの格好をして同じ仕事してるんだろうなぁ・・」というような事をワラ役の石原さとみがが言うと、タンシオが「大丈夫、良い大学に入って、良い会社に入って、結婚して子供作ったら、同じようにここでこの格好して仕事してるだろうから」というようなことを返す。(詳細なセリフは覚えてないからちょっと不正確かもしれないが)
これは女子高生二人の会話としてかなりグサッとくるなぁ。そういう将来へのこのまま何も変わらず続いていってしまう不安。そういったものが登場人物の若さの悩み、葛藤の大きなものであろうし、そのやんわりとしているけど堪え難い悩み、不安はずっとこの映画のベースにながれている。

●しかし、デパートの制服というか、エプロン着ている石原さとみはその格好がもうぴったりしすぎる位ぴったりしていて驚いた。もう、こう言った感じの若い店員ってホントに直ぐ近くのデパートやスーパーで普通に良く見かけるし、石原さとみはもうその格好が余りに似合いすぎているので驚いてしまった。「あれぇ、なんか近くのスーパーにいる店員さんそのものだなぁって。笑」


●そして変といえば柳楽優弥「誰も知らない」での演技は素晴らしかったが、見るからにこの少年は変わってるな、変だなと思わせる目つきやそぶり。今回はその変さを役柄にピッタシ合わせて使っている。いや、役柄の変さに柳楽を当てはめたのかな? ビルの屋上に包帯を何百本としばりつけ、屋上でドスコドスコイヨッコラショと踊る様はもう奇人である。だけど、その奇人ぶりがまた映画の中で強烈に光っている。金のかかる空中撮影はヘリコプターでビルの屋上を旋回して撮影したのだろう。そらから見下ろすビルの屋上で、踊り、叫び、走る柳楽の姿は野人、奇人である。が強烈な印象を見ているものに残す。この演技もたぶん柳楽が地でやってるんだろうな。監督は「自分の思った通りに屋上で動いてみな」とでも言って柳楽を屋上に放ち、それをヘリコプターから撮影したんじゃないだろうか?

●他にも沢山心に残るシーンはある。また撮影でこれだけアップを多用している日本映画もちょっと珍しい。こう言ったアップ多用の撮影はハリウッド映画での十八番なのであるが、邦画では珍しいスタイルだ。だれでも画面に沢山の風景や情報を取り入れようとして引き気味で撮影してしまう傾向はあるのだけれど。(一般に多くの人は写真を撮るときもいっぱい景色を入れようと割と広角一杯で引いて撮影しがちなものである)この映画ではフルスクリーンに顔一つだけと、話し会う二人の顔だけとか、そういう寄った撮影が多数見られた。これもちょっと異色。

●ということで、何が言いたいかというと、久し振りになかなかジンとくる映画であったということ。そしてこれはこの秋の必見の映画であるということ、そういうことなのである。

●辛口映画批評だから、褒めてないでここでマイナスな部分も書いておく。

●高崎のフィルムコミッションの多大な協力を受け、高崎市と市内の多くの建物や企業などの協力を得て撮影したというのだから仕方ないとはいえ、余りに高崎、高崎と特定の地元の名称を出しすぎている。デパートや観光地の宣伝でもやっているんじゃないのというくらい映画のなかに高崎市内のあれやこれやが出てくる。出てきすぎる。これはかなりうざい。高崎の人にとっては「あ、あそこだぁ」とわいわい騒げるだろうが、普通に映画を見ている分には余りに特定の地域名を出しすぎるのはうざったい、うんざりの演出なのだ。「アヒルと鴨のコインロッカー」は仙台や塩釜で撮影されたけれど、特にそんな地名は映画の中にはでてこなかった。だから映画を邪魔しなかった。この映画での高崎の出し方は余りに故意的なので、せっかくの映画の良さをちょいと邪魔して濁してしまっている。

●エンドロール後のシーンはもう前代未聞の蛇足。全く必要なし。せっかくいい感じで終わった映画の余韻をこの一番最後の訳の分からないシーンで台無しにしてしまっている・・・・なんでこんなラストを付け加えてるのかね?あざとらしいし、いったい何考えてんのという感じだ。

でも全体としてこの映画は非常に好き!だね。