『スパイダーマン3』 

●公開の2ヶ月近く前からの大々的な宣伝活動。過去作も含めたDVDキャンペーン。公開直前にはテレビ、雑誌、街頭宣伝と非常に多くのメディアにスパイダーマン3の広告が張り巡らされていた。配給会社としても過去最大の興行成績を納めたいという意気込みであろう。スーパーマンに続いてアメコミでは日本でも誰でも知っている、そして人気も高いスパイダーマンの第三作!その期待度は否でも応でも高まった。 しかし・・・・2時間20分に及ぶ長い尺のこの映画はその期待度に反して「なんじゃこりゃ?」と言えるような内容になっていた。一言で言えばエンターテイメント作品でありながらエンターティメント性がかなり欠け落ちている映画になっているということだ。

●日本が世界最速公開ということを大々的に宣伝では謳っていたが・・・・・本国アメリカで最初に公開して悪い評判が伝わり、世界第二位の興行市場である日本での興行成績に影響が及ぶのを危惧したスタジオ(本国も日本も)側が先ずは最初に日本で公開してしまおうとそろばん勘定的に決めたのではないか? 本国アメリカでは多少評判が悪くてもやはりアメコミヒーローのスパイダーマン、殆どの人が見に行く。だが日本では評判が悪いと観客動員に影響がでるから。(まあ辛口の推測だけど)

●それほどまでに、本来スパイダーマンという映画に対して持っていた期待感に全く応えない作品内容だった。これはこれで一つのポリシーなのかもしれないが、金もうけ最優先主義のアメリカらしくない映画の作りでもあるな。ポリシーや思想を映画に繁栄させたいとする監督にスタジオが押し切られたか?? だからこそ儲けなければいけないとスタジオは日本での世界最速公開という特異な公開戦略をとったのか?

●全体に長すぎてこの作品もダラダラ感が漂う。本来スパイダーマンというエンターテイメント作品に期待していたものはもっとスカッとしたアクションや悪者退治、痛快なストーリーであろうに、無用、蛇足と思えるような人間描写がダラダラ続く。アクション、エンターテイメント映画の定石から大きく逸脱している。監督にしたら「これはアクション映画ではないのだ、人間の内面を描く作品なのだ」とでも言いたいのだろうか? だがそれは観客の持つ意識、スパイダーマンというコミックのもつイメージとは乖離しているのではないか?

●もちろんスパイダーマンというコミックは他のアメコミと異なり多少ダークであり、主人公も明朗快活な設定ではない。それは分かる。だがそれでもエンターテイメントコミックであり、そこから生まれた映画はエンターテイメント作品として捉えられるだろう・・・・それが、エンターテイメント性が薄いのだ。

●なんか「エンターテイメント」という単語を乱発してるなぁ・・・・まあそこが一番のキーポイントと思う、この映画をどうとるかのね。

●作品の中身に関して少し・・・・・私的には最初と最後のアクションたっぷりのシーンを繋げて真ん中のつまらなくダラダラしたドラマ、ピーターとMJの恋愛、ハリーとの確執などは思いっきりカットしてしまったほうがイイと思った。そうすれば尺も1時間45分、どう考えても2時間に収まるはず、いや、この内容なら2時間以上の尺なんて嘘だろうというレベルである。

●MJを演じるキルスティン・ダンストはどう見ても可愛いとかキレイとか魅力的とか思えないんだよなぁ。そこもネクラな主人公に合わせて余りに派手でキレイな女性じゃバランスがとれないということからの配役なのか? なんかキルスティン・ダンストがヒロインというのはずっと違和感があったんだが今回はさらにその思いが強まった。

●ニューゴブリンとなったハリー、そしてヴェノムとサンドマンに一人では勝てないとピーターがハリーに助けを求めに行くくだり、スパイダーマンが絶体絶命の時にバーンと助けに登場するハリー!このシーンは非常にいい。予定調和的、分かり切ったストーリーだけど、そうあるべきだ、そうだそうなんだと唯一この映画のなかで拍手を送りたくなったシーンだ。まるでスター・ウォーズでルークを助けにくるハン・ソロのようだった。そう娯楽映画はこうあるべきだし、こういう気持ちの良い展開こそを求めていたのだ・・・・・まあその後はまたちょっと暗くなる展開に続いていたが。

●宇宙から隕石が落ちてきて、そこに付着していた生命体からブラックスパイダーマンが生じ、そして今回の悪玉ヴェノムが発生するという展開は原作から来ているとしても映画のなかではなんだか余りに安直過ぎる描き方である。

●eiga.comで樋口泰人氏が書いていることを少し引用させてもらう。「スパイダーマン3アメリカの現在が抱える問題がはっきりと浮かび上がってくる」「語られているのは「悪人にもそれぞれの理由がある。だから安易に復讐してはいけない」というたった一つのことである」・・・・・・・・。
なるほど・・・・・確かにこの映画の根底にはいくつかの恨み、復讐、そう言ったものがストーリーに巧みに組み込まれている。お爺さんを殺されたピーターことスパイダーマンスパイダーマンに父親を殺されたと思っているハリー、スパイダーマンに侮辱され貶められたとスパイダーマンを殺そうとするエディー(ヴェノム)。いくつかの恨みや復讐が話しの筋となって映画は進行している。

911テロに代表される恨みと復讐の連鎖。それが今のアメリカの抱える問題の一つであることは確かだ。そしてその終演はまるで見えない。世界中に恨みと復讐の種をばらまき植え付けてきたのだから・・・・アメリカは。

●最近の映画評でよく見かけられるが、映画で表現されるあれやこれをお決まりのように評者が「アメリカの抱える問題を繁栄している」「現在のアメリカの現状を投影している」としている。映画は思想を表す手段でもあり、その時々の社会情勢や風勢を如実に反映させていることは間違いない。だがなんにでもこの方式を当てはめて評するのはどうなのか? 評する方の在り方がそれこそなにか別な思想に扇動されているかのように思えてしまうことがしばしある。

●樋口氏のコメントは恣意的なものは無いだろうが、やはり最近の映画評のお決まりパターンの言い方のように思えてしまう。ただし、言っていることは間違いではない。

☆「語られているのは「悪人にもそれぞれの理由がある。だから安易に復讐してはいけない」というたった一つのことである」

スパイダーマンで語られているのがそのたった一つのことだというのは余りにまとめすぎでそうじゃないでしょうと言いたくなるが、ラストでスパイダーマンサンドマンの会話にはそう言ったニュアンスは重く折り込められている。

「俺は運が悪かったんだ、殺そうと思ってオマエの伯父さんを殺したのではないんだ・・・」「唯一つの望みは娘の病気を直して助けてやることだ、俺には娘しか残っていない」そう語るサンドマンにピーターは涙を浮かべつつ「お前を許す」そうしゃべる。そしてサンドマンはビルの谷間にきえていく。

●贖罪、寛容、確かに今のアメリカにはそういったものが必要なのかもしれない。テロへの復讐の連鎖をどこかで止めなければいけない・・・そういったメッセージをサムライミはこの映画の中に託しているのかもしれない。それは監督の思想であり哲学であり受け止めるべきものであろう。

だが、そういったテーマや思想、哲学とは別の所で、このアメコミヒーローの映画にまでそういったものを折り込んでしまうというところに問題点があるとおもう。

●結論的に言って、私はスパイダーマンは多少ダークなところがあるとはいえ、やはりエンターティメントの代表作であり、それをもっともっと高めるべきであったと思う。見終えたときにスッキリとしてやったぁと叫び拍手を送りたくなるような映画であるべきであろうとおもう。エンターティメントとしての作品テイストに、その善し悪しは別として社会情勢や思想哲学を練り込んでしまったことにこの映画のどっちつかずな失敗がある。

●現代のアメリカの病巣と問題点を語るならば別の映画ですべきだ、スパイダーマンですべきではない。多くの人が見る映画だからこそ、思想や哲学を折り込めば多くの人に伝えることができる・・・といった打算的な考え方も出来る。だが、それでは映画そのものの方向性にブレが生じてしまうのも止む終えないであろう。

●エンターテイメント、アメリカの問題、監督の思想、哲学、それぞれが別々に存在しているものを全く異質のものを一つの環境に押し込んだ結果がこのような映画になってしまったのだ。そしてその失敗をから生じる金銭的な欠落を補うためにハリウッド一流の金もうけへの効果的手法が検討された。そして日本最速公開・・・・・・まあそういった流れではないかな?

●これだけの宣伝が行われているんだ、大ヒットは間違いないだろう。だが、ダ・ビンチ・コードと同じく、この映画を劇場で見た人のどれだけがDVDまで欲しいと思うだろう? このだらだらの内容で。

●CGの凄さはもう行きすぎているのでなんとも思わない。やればやるほど、アッソ!という感じになってきている。それは映画界全体に言えることだ。沢山のお金かけて、沢山のCGで凄い映像を付くっても・・・・・やはり映画はストーリーであり、脚本なのだ、そこに問題のある作品は結局のところ心を揺さぶらない、心に残らない。

●GWの目玉作品として見るには見たが・・・・・「なんだかなぁ・・」という感想が一杯聞こえてきそうな作品である。スパイダーマンは好きな映画シリーズだけに残念だ。