『地獄の黙示録 特別完全版』

アメリカ映画が、映画であったのは、この映画までだったのではないか?そんな風に思う。

正真正銘の映画、これぞ映画、映画足りえる映画・・・・・そういう映画である。

●心してみなければならない、背筋を伸ばし、真剣に対峙して見なければいけない、そういう映画でもある。

●劇場公開時に観た記憶に残っているのはラストの宮殿の大爆破とドアーズのThe End が重なって流れる映像。「これで終わりだ、友よ、たった一人の友よ、全て終わりだ」そう叫ぶジム・モリソンの歌とともに赤くジャングルが燃え上がるラストシーンが特に印象的だった。
(79年の35ミリ拡大公開版)

●カーツ大佐の「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」というメモを見たウィラードが、狂気の場所と化したカーツ大佐の城をすべて焼き払う。自分は狂った人間ではない、威厳ある父親としての姿を息子に伝えて欲しいとカーツはそうウィラードに託し、自分が作り上げ(てしまっ)た狂気の軍隊を、その場所、自分の所業の全てを抹消してくれとウィラードに頼んだのだ。最初にこの映画を観たとき、そう解釈した。
そしてウィラードはカーツ大佐を殺した後、カーツの意を叶えるため、密林の中の城をナパームで徹底的に爆破し焼き尽くしたのだ・・・。
そう捉えた。

最初の公開版を観た多くの人はそう捉えたと想像する。しかし映画が公開されてから「そういう捉えかたは自分の意向とは異なるものだ」とコッポラは公言することとなる。

●最初に公開されたフィルムにはラストの大爆破シーンがあったのだが、コッポラは後に誤解を招いたとしてこのシーンを削除。エンディングはブラックアウトさせた。DVD化されたときに、特典映像としてこの爆破シーンは収録されていたが、特別完全版では完全に取り除かれている。

●この映画の評論では立花隆が最も有名であるが、立花隆
「カーツが残した走り書きから宮殿を爆破させたというのは勘違いである」
とコッポラと同じ立場をとっている。地獄の黙示録を解説する自身の著書の中でも
「(立花隆の)知人もカーツの遺言に従ってウィラードが宮殿を爆破させたと考えたのだが、これもとんでもない勘違いだ」
と記述している。
その考えこそ大いなる勘違いであり愚かなる邪推なのだ。
立花隆
「カーツを殺した後、ウィラードが武器を捨てると、原住民も武器を捨てる・・・これが平和主義への主張だ」
としているが、このシーンで原住民が武器を捨てるシーンは実に見難い、分かりにくい。私には武器を捨てることが平和を意味するなどとはとても思えず、新たな支配者となったウィラードへの服従を示したのだと受け取った。あの状態で武器を地面に置くことが平和のメタファーだというのは飛躍し過ぎた、余計な深読みであり邪推だ。

●ドアーズの歌の歌詞、カーツの走り書き、自分の息子たちに伝えてほしかったこと、そこから筋をつなげていけば、ラストの宮殿爆破はカーツが作った狂気の王国をすべて消滅させてくれというカーツの願いを叶えたものだという結論にたどり着く。ドアーズの歌もそこにつながる内容だ。それが自然な物語りの流れであり、登場人物と台詞から繋がる意志の表れだ。そう解釈するのが極めて自然だ。
●だがコッポラはDVDの特典映像において、ラストの大爆破はそういう意図ではなかった。観客に勘違いされたから取り除いたと説明した。立花隆も、あのシーンはカーツの行為が作り出した悪の宮殿を爆破しろとしたものではないとしている。

●いやそうではない。コッポラの発言は詭弁であり、立花隆の解釈はコッポラの詭弁に則った解釈だ。コッポラは当初、カーツが作り出した狂気の王国をカーツの意志で最後にはすべて消し去るという筋書きをもってこの映画のエンディングとしたのだ。だが、世の中の情勢、スタジオ、軍、アメリカという国の世情、映画界だけではなく、ベトナム戦争に対する世の中の考えなどからコッポラはラストの爆発は自分にとっても、この作品にとっても、よくない影響を及ぼすと危惧し、恐れたのだ。だからコッポラは後付の説明で「あれは間違いだ、多くの人があのラストの大爆破シーンを入れたことで映画の意味を勘違いしてしまった」と・・・言い出したのだ。これは後付けの理屈と言うものであろう。

●最初の公開版はその時点でコッポラが考えた映画の流れであり、結末だったのだろう。カーツが希望したものは《狂った戦争とそれがもたらした狂った存在である自分自信、自分が作り上げてしまった狂った王国と原住民組織への決着》だったのだ。カーツはそれをウィラードに託したのだ。そうでなければ「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」というカーツの走り書きが何を意味するか全く中に浮いてしまう。

●当時のアメリカ軍やアメリカ国内のこの映画に対する反応は非常に手厳しかったと言われている。批判的な意見が溢れ、スタジオまでもが及び腰になり、米国内での公開すらどうなってしまうか分からないと危惧されていたという。コッポラはこのままでは自分に対しての批判、映画に対しての批判が大きくなる。スタジオとの関係も考え「あれは違う、多くの人が勘違いをしている。私はそういう意図であの爆破シーンを最後いれたのではない」と状況に歩み寄り、摺り合わせた”嘘”をついたのだ。”詭弁”を弄したのだ。自分の編集したラストを変更し、自分の作った作品を世の中の批判、非難から遠ざけ、安全なものにすり替えたようとしたのだ。

コッポラは世の中の、当時のアメリカ社会の目とそこから生じた圧力に合わせて自分の映画を改変し、捩じ曲げたのだ。

●それが自分のこの映画に対する、コッポラに対する結論である。立花隆の主張するラストの意味付こそが物語の流れを考えず勘違いした、自分の都合よく解釈しようとした深読みなのだ。

●出来上がってしまったものでも、後付けで監督が何とでもいいように言える。観客の解釈と監督が意図したものが違うことも多々ある。ただし、繋がった映像、台詞、演技による整合性があるものが最も解釈として正しいとすべきだ。

●息子の話、父親の話をしていたカーツ、自分が作り上げたジャングルの中の王国、その王として君臨する自分自信の苦悩。戦争という狂気の中で自分が辿り着いてしまった狂気の場所。それをカーツは末梢したかった。それこそが人間を狂わせた戦争に対する反意志なのだ。だからカーツは「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」という走り書きを残した。そしてカーツはウィラードに殺される事を自ら受け入れた。カーツの走り書きを見たウィラードはカーツを狂気から開放した人物となった。カーツを殺したことはカーツを救ったことになったのだ。それは父を救う子の姿でもある。カーツの走り書きは遺言でもあったのだ、自分自信が狂ってはいない、自分はまっとうな軍人として死んだのだとしてくれ。だから、自分が作り上げたこの狂気の王国をこの世から消し去ってくれ。それがカーツが自分の命を差し出してウィラードに託した最後の望みだったのだ。だからウィラードは王国を爆破した。そう考えるのが流れとしても筋が通る。

●爆破シーンを削除してしまったのではカーツの最後の望み「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」が叶えられずカーツが作った狂気はこの世に残ったままになってしまうのだ。
ウィラードが無線を切るシーンが爆激を思い留まった証しなのだという解釈をする向きもあるようだが、それも無理な拡大解釈に思える。あのシーンは王国を離れたウィラードが流れてくる無線を鬱陶しく切っただけ。あのあとウィラードは王国から遠く離れてから爆撃を連絡したのだ。

●解釈は人それぞれだ。ただ「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」というカーツの言葉がある限り、最後の爆破シーンは物語の流れの中でこのセリフと繋がる。最後の爆破シーンをカットするのならば「Drop the Bomb. exterminate Them ALL」という言葉もカットする必要があるだろう。

●監督が言っているから正しい、監督がそう言っているのだからそれに非を唱えるのはおかしいとは思わない。監督であろうが誰であろうが、状況によって後付けでなんとでも語ることはできる。自分に都合よく物事を説明するというのは人間が最もよくやることだ。ラストの爆破シーン削除に関するコッポラの説明は、後付けの言い訳、ウソだろうと思えるのだ。

☆通常版DVDに特典映像として収録された爆破シーンでコッポラが語る削除の理由
《特典映像(機密映像と書かれたDVDの表示が笑える)カーツ大佐”王国”の破壊》より。
「編集が最終段階を迎え公開準備に入った頃、この作品は様々な物議を醸し出した。長期にわたる制作、マスコミへの発表完全に伏せられとてもミステリアスな映画として話題にされていた。そしてなにより議論の的となったのは事実とは裏腹に二つのエンディングがあるという説だ。そのような印象を与えた理由を説明しよう。映画の編集過程では様々な映像を用意して試行錯誤する。その一つとしてカーツ王国の爆破があった。フィリピンに建設した王国の建物は撮影終了後、撤去することが法律で決められていた。そこで爆破することに決め、多数のカメラと赤外線フィルムを使って幻想的な映像を撮ろうと考えた。この映像を本編で使うことも出来るだろうと考えてもいた。ウィラードがカーツの権威を継承するエンディングでは私自身の未来への展望が込められている。現代における戦争という究極の戦いを踏まえた戦争のない未来への願い。武器を捨てるウィラードとそれに従う原住民たち。ランスの手を取って歩く姿は新時代の到来を象徴する。そのため、空爆によって原住民を殺害するのは私の求めるテーマに反する。
結局この爆破映像は使用した。この作品をオリジナルの70mmフィルムで最初に公開したときは、メインタイトルもエンドタイトルも付けていなかった。だから観客はフィルムの終わりが物語の終わりなのだと受け取った。(爆破映像は付いていない)だが35mmフィルムでの公開時にはタイトルを入れなくてはならない。そこで爆破の映像をタイトルバックに使った。たぶん、それが結果的に誤解を招いた。一般公開でこの爆破映像を使用したことが、2つの結末説を想起される証拠になってしまった。
王国の爆破は私の意に反して、いかにも戦争映画らしい終末論的な結末としてとらえられた。それに気がついた私はタイトルバックを変更した。爆破シーンではなく、黒字のバックを使った。どう考えるかの判断は観客に任せる。だが、この爆破シーンは物語の延長や第2の結末ではなく、完全に独立したものだったのだ」

参考:空腹板:http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/apocalypsenow/index.html

●フランス植民者の農場のシーン。そしてプレイメイトの慰安訪問でのダンスシーン。両方ともイメージが強い。ブルーのミニスカートで腰を振って踊るプレイメイトのシーンはCMや予告編でも多数流されていたが、あのシーンには戦場の悲しさや悲惨さがよりこもっているように感じる。



未完・・・・この一作は徐々に追記

石岡瑛子さんが亡くなったこともあるのかもしれないが、最近になって石岡瑛子さんが手掛けた地獄の黙示録のポスターや画像があれこれ紹介されている。資料的な意味も考えて、この日記に転載させていただく。(2012/August)