《小泉堯史監督の講演》NHK文化センター青山 13:00-15:00  

●作品は人を映すともいうが、まるで自分の作品そのもののように、静かで、温かく、しかし強いものを持っている人である。

●こういった講演会形式は初めてだということで、多少緊張しておられるようであったが、これまで監督をしてきた4作品のこと、黒澤組での思い出など(たぶんこれはいつもインタビューなどで訊かれているのであろう)で2時間たっぷりお話をしていただいた。

●一つ一つの話しが非常に面白く、流石に映画という世界で作品という形を作り上げている人物であるだけに見事であった。

●大柄で黒澤明と同じくサングラスを掛けている小泉監督に対しては、最初、非常に個性が強く、放漫で、俺は!という自己主張の強い、いわゆる映画監督的なものを想像していたのだが・・・・・まるでそのイメージは違っていた。こんなにも謙虚に、控えめに、前に出ることなくしっかりと物事を伝える監督には出会ったことが無い。もともと監督というのは大勢のスタッフを統率し、まさに天皇的でないと出来ないというイメージが作りだされており、また自分の個性、感性で映像を作り上げていくのだから、押しが強くなければ勤まらないという感じであり、実際多くの監督がそうなのであるが・・・・・小泉監督の謙虚なたたずまいは驚きであった。

●黒澤組での仕事の雰囲気、エピソードも本や記事では書かれていない、誠に珍しく面白いココでしか聞くことのできない話しを沢山聞かせていていただいた。感無量である。

●「自分は映画好きでも映画人でも無かった。ただ、黒澤さんの下で助監督として黒澤さんと仕事が出来ることが楽しくて、好きでしかたなかった。監督になろうとか、作品を作ろうとかは思っていなかった。チーフ助監督として走り回って、黒澤さんの作る映画のお手伝いをしていることが何よりも好きだった」そういう小泉監督は黒澤監督との思い出の中に戻っているようでもあった。こんなことを言う監督はきっと小泉堯史監督以外今後二度と出てこないのではないか、だって、監督をしたいとは思わなかった監督なんて!(本当の本心かどうかはもちろん分からないけれど、きっと50%以上は本当ではないかと思う。これも素晴らしい発見である)

ーーー多少ニュアンスが違うかもしれないが、小泉監督の言葉で記憶に残るものを挙げておくーーー

◎「色々な脚本を書いていたのも、それを映画にするというのではなく、黒澤さんに読んでもらい、褒めて貰えれば嬉しいし、ダメだと怒られればそれでもいい、そういうふうに、黒澤さんにただ、自分の書いたものを読んで欲しくて書いていたのです」

◎「明日への遺言」も生きている間に黒澤さんに読んでもらいたかった。

◎「黒澤さんが亡くなったとき、もう田舎へ帰ろうと思っていた。それがお別れの会の後、息子の黒澤久雄さんに「雨あがる」は小泉が撮ってくれと言われ、監督をすることになった。それも、黒澤さんの遺稿を映画化したいというよりも、この黒澤組のスタッフの方々とまたお仕事をすることが出来るからという嬉しさのほうが強かった」

◎「寄るなら引け」「望遠での撮影の多用」「マルチカムの意味」・・・・・役者が自然な演技をするように、アップを取りたければカメラは寄るな、アップを取りたければ離れた場所から望遠で絵を捉えろ、近づいて役者がカメラを意識したらもうダメだ。

◎「黒澤組にはモニターがない」・・・・黒澤監督は撮影した映像を確認することはなかった。頭の中でもうフレームと絵は出来上がっているのだ。それをモニターで再確認などする必要はなかった。最近黒澤組で撮影をするのが初めての人だと「モニターはどこですか」と聞く役者さんが結構居る。モニターがないことにびっくりしているみたいだ。自分(小泉監督)も黒澤さんと同じくモニターは使いません。
だけど、黒澤さんはカメラは兎に角。良くのぞいていた。

◎「今は黒澤さんがやっていたような映画の撮り方は殆ど出来なくなっている。リハーサルに何ヶ月もかけるとか、役者を何ヶ月も勉強させるだとか。みんなスケジュールの中で管理されているから、一ヶ月丸ごととかそういう拘束はできなくなっている。」

◎「朝9時撮影スタートと言えば、9時には全ての準備が整い、役者も、小道具も、助監督も皆9時から撮影に入れるようにしておくものだった、だが最近は9時に現場にやって来るなどという人も多い。これでは黒澤組で映画は撮れない。」

◎「黒澤組の現場はそこに居る全員が緊張していた。針が一本落ちても音が分かるのではという位皆が撮影している場所に集中していた。だから誰か一人でもそういう気持ちでなく、別の事を考えていたりする異分子が居ると、黒澤さんは直ぐそれがわかった。「オイ、そこのぉ!」と怒鳴り声が飛んできた。皆がカメラが撮影しているそのシーンに集中し、皆が撮影に参加していなければならないのが黒澤組だった。

◎「おい、小泉」そう、黒澤さんに助監督である自分が呼ばれたら、何をすべきか前もって黒澤さんの動きを見、こういうことを希望しているのだろうと予想して「ハイ」と直ぐ動かなければならなかった。名前を呼ばれてから「なんでしょか?」などと言っていたのでは、黒澤さんの怒声がとび、黒澤組では通用しなかった。

◎「阿弥陀堂だより」のエピソード、お梅さんである北林谷栄さんが寺尾聡を宇野チャン(寺尾の実父宇野重吉)の息子が出るのなら私も出るわと出演を承諾した話し。宇野ちゃんそっくりと寺尾聡を息子のように可愛がっていた話し、等々二時間の非常に密度の濃い話しはこの場では語り尽くせない。きっと参加されていたどなたかがテキストとしていずれアップしてくれるであろう。

◎「海は見ていた」を何故監督されなかったのか? という質問には「黒澤さんが色々話してくれて、もうイメージも聞かされ、後は撮影というところまで来ていた脚本を、自分が黒澤さん以上に撮れるはずが無い、あれはもう出来上がっていたのだから、だから私はあの映画は見ていません」

◎「雨あがる」は2/3位まで脚本が出来上がっていて、のこり1/3を黒澤さんから聞いた話などを元にして自分が書いた。ラストシーンはたぶん黒澤さんならばこうするだろうと思ってあのようにしたのです。

注)録音していたわけではないので、こんな風に言っていたという記憶を辿って上記の小泉監督の言葉を書いています。実際に小泉監督が話されたところとずれている部分もあるかもしれませんが、その点はご了承を。

●そして何よりも驚いたのは・・・・「明日への遺言」の話しが終わり、一番最後で司会者の方が「映画の中の赤ちゃんがいらっしゃってますよ」と言った瞬間であった。指し示される方を見ると、初老のご夫人が一番後ろの席に座られていた。なぜこの人が、映画の中の赤ちゃんなのか?最初言葉の意味を理解出来ず、え、えっ??と思っていたが・・・・ようやく自分の頭が事を理解したとき、驚きは鮮明になった。

●「明日への遺言」の最後の部分でBC級軍事裁判の法廷の傍聴席に岡田資中将の御子息夫妻が、生まれたばかりの赤ちゃんを父親である岡田資中将に見せるために抱きかかえて入ってくるシーンがある。軍事法廷で死刑の判決を受けながらも、法戦には勝つと自分を曲げることの無かった岡田中将が、娘、息子夫妻の抱きかかえる赤子に近づき、優しそうに、嬉しそうに慈しむシーンがある。そう、その赤ちゃんが・・・・ここに座っておらられるご夫人であったのだ。

●岡田資中将のお孫さんにあたるご夫人は司会の方に促され、少しお話をされた。

「ちいさいころおばあさん(岡田資中将の妻である温子さん)が「あなたのおじいさんは物凄く偉い人だったのよ」と口癖のように話していた。子供だった自分はそれに反発して、却っておじいさんの話には耳を背けていた。今になって思えば、もっともっと色んな話しを聞いておけば良かったと思う」とおっしゃっていた。そして「映画は3回見ました。最初の二回は身内のことという部分もあり、思うところもあり、なかなか映画として見ることが出来なかった。だけど、三回目にしてようやく、作品としてこの映画を見ることが出来、この映画が良い映画ということを理解することができた。だから今、知合いには良い映画だから見てと宣伝している」ということであった。

これは、その場に居たからかもしれないが、本当に驚きの体験であった。あの赤ちゃんが・・・・やはり映画はすばらしい。

●最後に小泉監督はご夫人に丁寧に挨拶をされていた。

●「明日への遺言」はエンターテイメントではない、重く、厳しく、真摯な映画である。映画にエンターテイメントを求める若い層は、やはりこの映画を見る為に映画館に足を運ぶことはすくないであろう。だが、これだけの映画が出来上がったのだ。映画館に足を運ばずとも、レンタルになってからで構わない、一人でも多くの人にこの映画を見てもらいたい、特に若い層には・・・そう思う今である。