『愛のむきだし』

●「出来上がった作品には監督の生き方とか、人生だとか、考え方が結局は全部乗り移る。隠そうとしても隠せるものではない。観客には全部わかってしまう」
ある監督の言葉だ。100%ではないけれどその言葉に同意している。
●そして、これまで観てきた園子温の監督作品から自分が感じて来たものは「全くこの監督とは考え方が合わない、たぶん今後も作品を観たとしても感動も、共感もすることはないだろうと」というものだった。昨年観た『気球クラブ、その後』でもやはり同じ感想しか持ちえなかった。「ああ、もうこの監督の作品は観なくてもいいな」と思っていた。

●『愛のむきだし』という作品が随分とあちこちで傑作だなんだと絶賛され、ファン投票や年間ベストテンなどの企画でも1位に選ばれたりしているので、なんだそれは? と思ったら監督は園子温。しかも尺が4時間。ああ、またこの監督はおかしなこととやってるなと思った。だが、やはり気にはなる。ちょっとネットで他の感想などを読んでみると「傑作だ、邦画の集大成だ、これぞ純愛を描いた作品だ、感動した・・・」等々随分と凄まじく称賛されている。それを素直に受け取るわけではないが、そこまで書かれていると「やはり観ておくか」という気になる。

●しかし4時間というのは異常だ。またこの監督はそういう突飛なことをして目立とうとしているのじゃないかと直ぐに思ったが、これまた「4時間の長さを感じないとか、あっという間だった」という書き込みも多い。さてどんなものかと思い、まあ4時間だから、ながらでぽつぽつ観ることとしようと決め、画面に向かった。好きになれない監督の作品というフィルターはなるべく外して鑑賞したが、やはりこれは園子温の作品であり、やはり好きになることも、良いと言う気にもなれない作品だった。

●作品を撮り重ねて以前よりも技巧が上がったからだろうが、演出のメリハリ、テンポの良い展開で、確かに4時間がだらだらと退屈に流れる訳ではなく、苦痛ではなかった。それでも4時間なんて必要ない。まったく必要無い。これはまるで原稿料を稼ぐために要りもしないエピソードをあれこれ詰め込み、要りもしない改行を繰り返してページ数を稼いでいるやたら長い大衆小説のようなものだ。

●エンターテイメント作品としてはなかなか面白い。だが、エンターテイメントとして観客に飽きさせない技を監督が身に付けたとしても、それがはっきりとしたエンターテイメント作品(怪獣ものやらドンパチアクション、ホラーもの)に対して使われるのであれば良しだが、この作品は違う。この作品のモチーフは愛とか宗教、信仰、そして新興宗教にとらえられた人といったエンターテイメントではないものばかりではないか。この作品は語るべき対象と伝えようとする手法がちぐはぐに結びつけられている。それを異常な長さの中に押し込めて形にした技は認めるとしても、それはまやかしであり、ごまかしの技だ。

●食堂で一番安く効果的な宣伝方法は、飯やオカズの盛りを”おお!”と思うくらいの大盛りにすることだという。普通よりも見栄えで多いと思う程度でいい。実は味もさほど秀でたわけでもない街道沿いの食堂がモヤシやキャベツ等の安い食材を使ってオカズを増量し(肉は増やさない)、山盛りにし、味付けは濃い目にし、安い米を使ってご飯も大盛りで提供すると、腹を空かした人の人気を集め行列ができ、ごった返す。そして味自体はごく普通なのに「あの店はいいよ、美味しいよ」という口コミをが生まれ繁盛する。悪意はないが、客はまんまとハメられている。だけどそこに気がつかない。味は普通で量だけが多めの食堂なのに、客はしごく満足して店を出る。この映画はまさにそういうものだ。

安い食堂ならそれでもいい、だが、映画は違う。

●この話は実話で、知り合いの盗撮マニアの友人の妹が新興宗教に入り、それを引き戻すという本当の話から作られたという。それが、映画を作っていく段階で一本走っていたストーリーにあれやこれやと思いつくままに面白そうな話を貼り付けていったらこんな長さになってしまったかのようだ。せっかく撮った話が割と面白いからこのまま全部繋いだままにしてしまえ・・・そんなノリで作られた映画だろう。(これだけあれこれ話を繋げればこんなに長くもなるだろう)

●この映画を本当の純愛映画だとか、”むきだしの愛”の映画だとか言っているけれど、この映画の中で純愛だとかの部分は多分全体の10%も無い、それもほとんど最後の部分だ。90%はギャグでありコミックでありギミックだ。観客はコミックの部分が面白くて映画を見続け、最後の部分でガツンとちょっとシリアスなストーリーでクイっと栓を締められたものだから「ああ、面白かった、ああなんて素晴らしい愛の映画なんだ」と飲み込まれ丸め込まれ、それまでのストーリー全部を純愛だと意識を操作されてしまっているのではないか?

一番最後にキュンと来る純愛のエピソードを見せられたら、それで全部が純愛映画になってしまうというのか? それは違う、それも違う!

●この映画は全然愛の映画でも純愛の映画でもない。そういう部分はほんの少ししかないのだから。なんだか今まで知らなかった好奇心を刺激する盗撮だ、新興宗教だなんて話に引きずられ、それが一連の話として繋げられ、わけのわからぬままラストまで連れてこられて、一番最後に「これは愛だぁぁ!」とドーンと花火を打ち上げられたものだから「おおぉぉ!そうだ、愛だー! 愛なんだ!愛だったんだー!」と拳をあげて賛同してしまう。この映画を絶賛して”愛だ”なんだと言っている人は、まるでそんな人じゃないだろうか?  

それはまんま新興宗教に見事にはめられてくようなタイプの人。新興宗教が人の心を陥れ宗教にはめる手法そのものだ。

●終わりよければ全て良しという言葉はあるけれど、まんざらでもないラスト。そこに至るまでの、興味津々でそこそこ面白いエピソードの詰め合わせ、山盛り。それだけでこの映画を傑作だなんだと言っているのは映画のなんたるかとは別事の評価だ。大盛りの定食屋が料理のなんたるかとは別事と同じだ。

大盛りテンコ盛りの定食にも価値はある。だが、それは傑作や名作と呼ぶ価値とは違う。

●人間の原罪、懺悔、勃起、盗撮、セーラー服とパンツ、校内乱射、レズ、自慰、血しぶき、暴力、新興宗教、ヘンタイ!! と興味、好奇心を抱かせる話題(小鉢)を次々出され、いつのまにか4時間経過してしまっていてお腹は満腹、あれ、全然飽きなかった、面白かったんじゃない? と思ってしまう錯覚。それは、そこそこの味のちょっと変わった小鉢料理を沢山並べられ、食べているうちに時間も経ってなんとなく満足してしまっている感覚。満足させられてしまっている感覚だ。それがこの映画だ。好奇心を煽るちょっと覗いてみたい知らない世界の話。それは上手に盛りつけられた小鉢の料理であり、調味料を使って誰にでもそこそこに美味しいと感じられるように調理され、たくさん並べられた小鉢のなかの食材なのだ。

●映画の内容を話せば、この映画でむきだしにしているのは”愛”じゃないだろう、むきだしにしてるのは”感情”だろう!それも即物的な欲情、色情である。どうしてそれが”純愛”なんだ? なんでそれが”むきだしの愛”なんだ? わがまま、自分勝手、自己中に振る舞い、傲慢で放漫な自己の感情を身勝手に吐き出すこと、それが”むきだしの愛”だというのか? ばかじゃないのか? むきだしの自己欲じゃないか。そうズバっと切って落としてしまう。自分は。

●四時間が全く飽きなかった、あっという間だったなんて言ってる人も多いが、テレビのトレンディードラマを4,5週分まとめて観たという感じであろう。HDに録画しておいたものを週末にまとめて観たら全然飽きずに4時間位続けて観てしまう。TVドラマは視聴者を飽きさせないテクニックで繋げられているからだ。それはドラマの力量とは違う。飽きなかったから凄い映画なのか? 飽きないことが作品のクオリティーであるものか! ましてや作品や監督の力量であるものか!(飽きてしまうような映画は論外ではあるけれど)

●この映画はえらく長いエンタメ作品というべきだろう。宣伝文句は”純愛エンターテイメント”になっているが、これは純愛映画でも愛の叙事詩でもない、繰り返し言うが、その要素は映画の中でほんの少ししかない。人間の原罪だとか、盗撮だとか、虐待だとか、新興宗教だとか、もうあれこれ貼り付けられているけれど、なにか一つをこれだ!って訴えるような作品ではない。最後には「愛だぁ!」で落とし前をつけているけれど、きっと『愛のむきだし』という題も、純愛だとかいう説明も、出来上がったものを観たらそういうふうにしたほうがいいだろうってことで考えた”後付けの言葉”であろう。最初からそういう風に考えて、そういうコンセプトに沿って作られて持ってきたものではあるまい。

●この映画を絶賛し、素晴らしい、感動した、傑作だなんて言っている人、そんな人こそ邪心な新興宗教に陥る予備軍たる人じゃないかと思えてしまう。それこそひょんなことでちょっと落ち込んでハチ公前でベンチに座ってうな垂れている所を「みぃつけた」って言われただけで自分が見い出された、救われたと思ってしまい、新興宗教に意図も簡単に捕まって、関係のない周りの人間にまで「あなたを幸せにしてあげるためにこう言ってるの」なんて言って、むりやり洗脳された俗教義を押し付け、それを少しでも広げることが世の中を平和にすることなのだ、人を幸せにすることなのだなんてとてつもない勘違いして、甚だしく周りに害悪、迷惑を加える、そういった危ない一歩手前の予備軍というべき人なんじゃないか。トンと背中を人さし指で押されたらあっさりあっち側に落っこちてしまう人。自分がそうだなんて思っていなくてもこの映画が純愛だとか、むき出された愛だと思っているような人は、そういう新興宗教に見事につかまり嵌まってしまう要素を心の中に抱えた人じゃないだろうか。エヴァンゲリオンだとかに熱狂していたオタクな連中と同じような人だろうとも思ってしまう。(まあかなり独善的な言い方だが、敢えてそう書く)

●あれこれ寄せ集められたエピソードの山だが、愛のむきだし、いや、愛というよりも自分の傲慢な感情のむきだし、それを一番に表現していたのはユウでもヨーコでもなく、渡辺真起子演ずるカオリであろう。カオリの行動、感情表現は愛ではなく傲慢な自己欲を抑制せずに噴出させているものだ。

●ヨーコを演ずる満島ひかりの演技を絶賛している向きもあるが、下手くそではないが絶賛するような演技とまではいかない。 だが嗚咽して泣くシーンはかなり感情が入っていて凄さがあった。

●この映画の中で絶賛すべき演技はおぞましい新興宗教の幹部コイケを演じた安藤サクラだ!  新興宗教団体がいかにして人の和の中に入り込み、いかにして人を陥れていくか、その手口が事細かに表現されていることには目を見張った。盗聴、盗撮によって家族しか知りえないことを知り、それを利用して徐々に人の心を掌握し、人を陥れていく様はおぞましいばかりだ。そしてそれを演ずる安藤サクラの凄み。こういう宗教団体、たしかに朝の渋谷なんかによく並んでいた。似たようなシーンは『紀子の食卓』にもあったが。


満島ひかりの自慰シーンは正直オッとこれも目を丸くしてしまう場面。このシーンはかなりエロティック、かなりのH度だ・・・。このシーンはAV以上?

●自分がこの映画を観てズシンと来たシーンはコイケが「オマエも同じだよ」と言って自分の体に日本刀を突き刺し自死するシーン。この映画、変なコミカルなエピソードなんか入れないで《新興宗教団体に勧誘され、その中で幹部になり、周りの人を陥れていき、だが最後には悲しさを抱えて死んでいく一人の女性》なんてストーリーで組み上げたら、重く強烈なアジテーションを持った、熊井啓的な社会派の問題作、名作が出来上がったかも?自分はコイケのエピソードにこそ注目する。


園子温の作品は好きではない。それはやはりこの作品にも当てはまる。それでも今まで観た他の作品よりはいいという事だけは感じた。思いつきを暴走させるなら井口昇の方がいいとは思うが、いつか、何十年か先には自分も良いと言える作品が出てくるかもしれないな。まあ相変わらずこの監督の作品は積極的に観ようとすることはないだろうけれど。

追記)主人公ユウのオカマの魔女のような格好はなんなんだろうと思っていたのだが、あれがジョン・レノンの真似だったと随分後になって分かった。
訂正)「あれは「サソリの女」と言っているので梶芽衣子さんです」というコメントを頂いた。黒マント+ハットのジョンの格好もそっくりなのだが、そのセリフから言って、なるほど、梶芽衣子さんのオマージュの方が正しいようである。2011/2/2

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