『二人日和』(2005)

藤村志保栗塚旭の演技は上等の味がある。熟練、熟成のこの位の年齢の役者はやはり積み上げてきたものが違うなと、じっくりと演技を観賞。こういう味わいは日本の映画、演劇の中で沢山の作品に出演し、叩かれ怒鳴られ努力し鍛練し鍛え上げられて積み上げてきたもの。醸造した酒、醤油、味噌のような、やはり時間が掛からなければこの味わいと雰囲気は出来上がらないもの、若手、中堅の役者にはどうあっても無いもの。

・京都の伝統工芸や祭などの場面はわざとらしさも感じるがやはり良い。

藤村志保栗塚旭に較べては可哀想かも知れぬが、若い役者のほうはどうも演技が浅い。なにもこういう若いカップルなど話に組み込まなくてもよかったんじゃないのか。そしてもうテレビだろうが映画だろうがもう飽き飽きするほど使われてきたどうしょうもない設定「アメリカにいくんだ」ってのはどうしょうもない。

・マジックの話とか若いカップルの話は、まあそれほど変なことにはなっていないがあっても無くてもいいような話だ。余計、余分な話を貼り付けることなく老いて病に向かっている夫婦にしっかりと焦点をしぼりこんで話を構築すべきだっただろう。それともそれだけでは2時間分の話を作れなかったのか? なんにしろ焦点はぼやけてしまっている。

・これも取り扱っている素材は悪くないのだ、だがそれの料理、演出の仕方が巧くないのだ。

藤村志保栗塚旭の演技と若干の京都の伝統を見る価値はあるけれど。

・それにしてもテレビにしろ映画にしろ演劇にしろ、演出家、脚本かはこの「アメリカに行きます」って設定をいまだにう使い続けることに疑問はもたないのだろうか? 登場人物になにか葛藤とか悩みを付け加えるのにいつも決まって「アメリカに留学する」「アメリカに駐在してる父によばれた」「アメリカに転勤が決まった」っていう常套句を使うのはいい加減恥ずかしくないだろうか? ほんとになんで全部アメリカなんだ? 戦後から高度成長期を生きてきた人達にとってはアメリカが憧れであったし外国と言えばアメリカだったのかもしれないが、今更そんなものはない。今でもアメリカは大国には間違いないが、今のアメリカに憧れや夢がどれだけあるだろうか? この定型化したワンパターンの思考形態はちょっと異常でもありいい加減にしたらと言いたくなる。まあイギリスに留学とかドイツに留学というよりアメリカといったほうが耳に馴染みがあるのだろうしごく自然で抵抗感のない設定になってしまっているのだろう。だがそれを未だに使い続けるというのは明らかに感覚のズレがある。現状と乖離したものがある。

・画面の構図にしろ、ポスターにしろ小津安二郎を意識したものが沢山だが、それがそのまま小津的様式美の安堵感とは違う。