『いつか読書する日』(2004)

●主演の田中裕子は撮影当時で49歳。作中人物の設定年齢にもほぼ近い。田中裕子はなぜか薄幸なイメージがある。目が細くてはっきり瞳が見えない感じがそういうイメージを出しているのか?と思ったりするが。実際に50歳に近い年齢なのだが、そんなに老けたおばさんというイメージでもない。20代後半頃からあまり体系も顔の形も変化していないので、一人の女性のイメージとして老けたという感じがしない。だから今回の50歳を過ぎても一人でつつましく生活をしているという人物設定がイメージと噛みあわない気がする。ましてや毎朝坂の多い街で牛乳瓶の入った重いバッグを肩から提げて、急な階段をスイスイと走って上っていく姿を見ると、まるで30代位の女性に見えてしまう。この女優がいつまでも若いイメージを保ち続けているのが非常に不思議で驚きでもある。

●昔、中学とか高校時代に好きだった相手。彼にしても彼女にしてもお互い思い合っていたけれどちっとした事件がきっかけで心が行き違い、結ばれることが無かった。もう50も過ぎているのに、その思いはまだ持ち続けている女。結婚はしたけれど、まだ思いをもちつづけている男。話は非常にセンチメンタル。20代OL、30代ミドルでもそのまま通用するストーリー。50歳代でこの話をもってきたというのが異質でもある。

●こういう状況に胸をキュンと締め付けられ、思わず目尻に涙を浮かばせてしまうのは・・・女性だろうか?男性だろうか?やはり女性だろうなぁ。

●坂道の多い街を牛乳配達で走ったり、自転車で走ったり、動力なしの人の力で動いている主人公。そしてその姿を遠景から、直ぐ近くからと多様に撮影しているのは面白い。

●だが・・・無駄に2時間を越える長さにする必要などないのではないかと思えるシーンは多い。やはり、もっとこのシーンはカットしてもっと話をストレートに伝えたら・・・そう思いつつ絵を見てしまう。

●50代の二人なのに、その仕草、再会、心を打ち明けるときなどはそのまま10代か20代の仕草のようだ。若い頃から気持ちが何も変わっていないという表現なのだろうか? 二人に学生服を着せたらそのまま青春時代の恋愛風景だ。監督はそういう狙いで演出し撮影したのだろうか? いくらなんでもという気がする。

●妻が病気で亡くなり、残された男と一人暮らしの女は今まで心の中に押し込めていた気持ちを長い年月を経て遂に外に、相手に向かって解き放った。そして二人は当然のようにお互いの体を求め抱き合う・・・しかしだ、このシーンにそういった二人のあふれ出した気持ち、激情を伝えるような激しさ、強さが無い。ここを官能的に描いてしまうと、それこそ失楽園のごとく中年オバサンのスケベな興味を喚起するだけの映画に陥ってしまっただろうが、40年近くの歳月の間、ずっと自分の心に押し込めてきた思いをようやく解き放ったのだ、こんな程度の求愛で済むはずも無い。その辺は監督が主役の二人の演出になにか躊躇し、遠慮しているかのように思える。だから「んー、クライマックスと言える場面がなんだかこれじゃあなぁ」という気持ちになる。

児童相談所、若い親が面倒を見ず腹を空かせた子供、最後にはその子供が引き金となって物語が終結するのだが・・・・子供の養育を放棄した親、そのエピソードは非常に深刻で重過ぎるし、さらにこの映画の話に親和性が無い。なぜ監督はこういうエピソードをストーリーの中に入れたのか? 消化できない話を混ぜたのか? また、痴呆症になったおじさんの話もそう・・・・・・やはり話が絞られていないし、散漫に飛び散っている。

●ラストもあまりに在り来たり過ぎると言って良いだろう。

●127分もの長さの映画なのに、これは冗長が過ぎる・・・期待して観たのだけれど、やはりこれではダメだなぁ。

●『いつか読書する日』というタイトルも、最後まで見れば意味は分かるが、それはタイトルとしての力を持っていない。監督の個人的な思い込み、嗜好だけで付けられたタイトルか? あまりにもこれでは抽象的、映画の中身との繋がりは薄すぎる。タイトルが心に刺さってこない。

●なんだか、これではなぁと思ってしまう残念な一本。