『夕凪の街 桜の国』

●見逃していたものを時間のあるときにゆっくり見ることが出来るという点で、やはり映像ソフトは貴重。映画館で観るのが映画だとは思うが、大画面の迫力の凄さを感じるような作品でなければ、最近は家でじっくり観るほうがいいと思えてきた。昔から比べればテレビも大画面になっているし。前後、隣に座る人の煩わしさに気を取られることもない。特に、文芸作品や色々と考えさせられる作品はじっくり鑑賞したいと思うから家のほうがいい。

●この映画は周りでの評判が非常に良かった作品。広島の原爆被爆者の話しということを聞いていたので背筋を伸ばし、キチンと真っ正面を向いて観ようと思った。

●二部構成の第一部「夕凪の街」は非常に良い。特に麻生久美子の演じる平野皆実が、被爆した自分の存在への悩み、失った兄弟、家族への悲しみ、自分だけが生きていることへの苦しみ、そういった生き残った人の苦悩を、静かに、だけど強い鼓動で演じている。被爆後の病気が進行し体がどんどんとか細くなっていく女性の姿の中に、自分はどうしてこうなったのか、あの原爆投下から13年も生き続けている自分の意味は?それを自分に問い続け、生きることの責を負おうとしている一人のヒトのどうにもならない悲しさが心に送られて来る。

●一部「夕凪の街」は麻生久美子の演技も素晴らしいが、敢えて戦争の場面を描くことなく、悲惨さは描画された広島原爆直後の絵で語られ、これが悲劇の悲劇さを静かに、より強く訴えかけてくる。生き残った人にも、生きている事を手放しで喜べない悲しさが日々津波のように押し寄せ、心を暗く押し込めていく。そんな戦争後の悲しさがひしひしと伝わってくる話しである。この一部は非常に良い作品となっていた。

●そして第二部「桜の国」になったところで、作品の質がガタンと落ちた。田中麗奈中越典子堺正章のキャスティング役柄の個性が、第一部の物静かだが重く響く作風を完全に打ち壊している。この演出は対比法というには当らない。頓珍漢な反作用しか生みだしていない。田中のキャラクターに、戦後の皆実たちとはまるで違う現代の女性を当てはめて、その違いを際立たせようとしたのかもしれないが、これはハッキリ言って大失策だ。堺正章にもこの役を演じる神妙さが感じられない。

●父親のおかしな行動に疑問をもって、追跡し、駅で友達に会って、一緒に高速バスに乗り込んで父親と共に広島まで行ってしまうというのも現実性に欠けるご都合主義のストーリー展開。これはありえないだろう。しかも同じバスに乗り込んでいてギャーギャー騒いでいて父親には全く気付かれないというのも変。そして広島まで行っても父親の追跡は続く。これも全く変な設定だ。一緒に行くことになった東子(中越典子)の登場も、最後には話しの上での辻褄は合わせているが、これもありえない展開。具合が悪くなってラブホテルに女二人で入るというのも、なんで??と思ってしまう。弟と付きあってる東子が妊娠した話、これもいらない。なんだかこの辺は真面目だった第一部をすべてぶち壊し、第二部で映画を茶化してしまっているかのようだ。

●まあ、こういう揚げ足取りをしていたのでは第二部に関しては切りが無くなりそうだ。兎に角第二部のストーリーの設定、登場人物のキャラクター、キャスティング、全ておかしいんじゃないの?と思う。

●原爆の投下、その後も苦しみが続く広島と被爆した人々。そしてその苦しみは数十年を経た今の日本まで連綿と続いているのだという訴えは良いのだが、その表現として第二部で俗物的ストーリー、演出をしてしまい作品そのものをダメにしてしまっている。

●第一部 夕凪の街を観たときに、これは原爆という人間の作った魔の兵器のおぞましさを伝える重要な映画になるのではないかと期待した。だが、それは第二部で殆ど裏切られ、期待が消え去った。

●第一部だけだったら原爆という兵器の恐ろしさ、戦争の悲惨さ、おろかさを伝える良作としてきっと小学校や中学校で子供たちに映画鑑賞として見せたり、地方でも公民館や市民会館で上映して多くの人に観てもらう非常に良い作品として薦められたのだが、第二部の言ってみれば、真面目なだけじゃ売れないからと商業映画に寄ったような俗なストーリーが作品そのものをダメにしてしまっている。どう考えても一部と二部のアンバランス、映像としての調和の無さが残念でしかたない。

●残念なことだが、原爆の悲劇とその悲惨さを伝える映画はとして、第一部夕凪の街だけで、短編作品として残したほうがいい。そう思ってしまう作品である。

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