『椿山課長の七日間』 

●うーん、全くノーチェックだったのだが、不覚にもちょっとアゴが痛くなるくらい泣けてしまったなぁ。

●未見の内覧用のVHSやDVDを整理していたときに、お気楽そうな映画だからこいつでも暇つぶしに見てみるかな? そんな感じで見はじめたのであるが、なんとまあ、こんなにイイ作品だとは思いもよらなかった・・・・ほんとうに不覚である。

●「地下鉄(メトロ)に乗って」もそうであるが、伝えきれなかった思い、思い残したこと、やり残してしまったことをなんとかしたい、そういう人間の思い残しを、時を越え、空間、時空を越えて叶える。そんなファンタジー浅田次郎の一つのテーマなのであろう。この『椿山課長の七日間』も人が人生の中でやり残してしまったこと、思い残してしまったこと、それをほんの少しでも叶えるチャンスをもう一度だけあったならば、人はそれまでの人生をきっと思い残すことなく終わらせることもできるだろう。そんな優しさに溢れている。

●もう死んでいるのだけれど、初七日までの限定で仮の姿でこの世に戻ってきたのだ、だけどそれは口にだして言ってはいけない。そのもどかしさ、歯痒さが見ている側としてもまるで自分の境遇のようにもどかしく、歯痒く感じてしまう。ああ、言いたい、だけど言うことは出来ない。その歯痒さは役者の演技から自分に乗り移ってくる。そして、生前はしらなかったことを知ってしまう切なさ。それをも飲み込んだ上で、最後に、天国に行ってしまう前に自分の思いを、やり残してしまったことを伝えたい。自分だと言うことは出来ないのに、伝えたい・・・この葛藤、カセ、これは小説としても映画の演出としても見事な巧さだ。

●感動の嵐が立て続けに来るのは國村隼演じるヤクザの家に姿を変えて現世に戻った3人が呼び寄せられるように集まったシーンからだ。この辺りも非常に話しとして巧い。姿を変えて蘇った3人が実はそれぞれが繋がりを持っていたのだから。

●先ず最初にこらえ切れずに涙が滲んでしまったのは志田未来の演じる子供と市毛良枝の抱きあうまでのシーンだ。自分の正体を明かすことは出来ないため、友達となった陽介君に自分の思いをお父さんとお母さんに伝えてもらう。自分の姿は女の子になってしまっているから、陽介君にお父さんとお母さんの子供の振りをしてもらって、言えなかった一言「生んでくれて有り難う」と伝えてもらう。陽介君がその言葉を話すとき、自分では言えない歯痒さともどかしさを噛みしめ、飲み込み、お父さんとお母さんが陽介君を抱いて泣くシーンを離れた場所からじっと見つめている。何のセリフもないのに、このときの志田未来の表情、伝えられない思いを噛みしめているその演技のなんたる上手さか! 志田未来はその表情だけで心の奥にある気持ちを見ているものに十二分に感じさせてくれる。志田未来の演技、そして監督のセリフのない演出の見事さだ!そして、その志田未来演じる蓮子の姿を見た市毛良枝の表情。女の子の姿をしているのに、本当の自分の子供はこの子だと気が付くその目つき、表情、仕草・・・・・んーこんなことを書いていてもまた涙が浮かんできそうだ。 本当のお母さんに抱きしめてもらいたい、自分は今女の子の姿をしているのだけれど、本当は僕なんだよと言いたい、でも言えない・・・その思いが言葉にしなくてもお母さんにはわかった。全てに気が付いた母が、黙って近づいてきて蓮子を抱きしめる・・・・・もうそれで、蓮子の姿を借りた雄一の最後の最後の思いは叶えられた。嬉しくて、哀しくて泣きたくなる蓮子を演じる志田未来の演技のなんたる上手さか。抱きしめられながら光となって消えていく姿に、もう感動し、涙を流さざるを得なかった。

●そして、この感動に覆い重ねるように、また新たな感動が続く。成宮寛貴演じる死んでしまった親分が,ガラスを破って飛び込んで来た自分の子分の暴走を必死で止めようとする・・・姿はまるで違った若者になっているのに、子分は自分の撃った弾を受けた若者の姿に、敬愛していた親分の姿を見る。姿形はまるで違う人物なのに、心で感じ心で分る、そしてその若者があの親分であると気が付く。「親分・・・」と叫んだ瞬間、成宮演じる死んでしまった親分がフッとと笑顔を見せ、そして光となって消えてゆく・・・・・もう、この時点で二回目の感涙であった。どうにもたまらない感動であった。

●そして圧巻は最後の最後だ、もう思い残すことはない、まだ時間は残っているけれど、そっちの世界にもう戻してくれていいぞと、伊東美咲演じる椿山課長が言う・・・・だが、もう一つ、後一つだけ、伝えたい、やり残したことに気が付く・・・・自分が本当に好きだった女性への告白。ここに至までの伏線の張り方も見事。それが伏線だ後に続く仕掛けだとはまるで気が付かない巧妙さでいろいろな仕掛けが張られていたことにようやく見ていて気が付く。原作と脚本の作りが見事なまでに巧いのだ。盛り上がる音楽と共に駆け出す椿山課長こと伊東美咲。そして、自分が働いていたデパートに戻り、本当に自分が好きだった、自分のことを一番に分ってくれていた女性に、最後の最後に思いを伝える。その時の伊東美咲と、背後から聞こえる西田敏行の声がまた泣けてくる。伝えたい、でもどう言ったいいんだ、ああ、なんとかしたい・・・・そして・・・・ここは本当に素晴らしい。もうダメだいうくらい話しの巧さに感動して泣けてしまった。

●デパートの屋上で光になって姿が消えていく伊東美咲演じる椿山課長、追いかけてきた余貴美子演じる智子は消え行く女性の姿にバカデブと言いながらも一番に思っていた椿山の姿を垣間見る。そして自分の思いも、二人だけの合図で伝える。セリフはなにもないのに、全てを分りあえたことがお互いの表情から見事に伝わってくる・・・・もうここまで感動を重ねられて自分としては完璧に涙だらけで打ちのめされてしまった。

●いや、この作品にかんしてはダラダラと長々書いてしまったが、もっともっと細かなところにも色々感心させられ感動させられた。こんなに感動してしまった。人間関係、親子関係、職場関係、恋愛、老後、この映画の中にはそれ一つだけを取っても話しになるほどの話題、テーマが山盛りに入っている。

●感動ということでは、この映画はここ数年では一番である。不覚にも劇場では見なかったのだが、劇場でこれを見ていたら大勢の人のなかで男泣きしてしまっていたかもしれないなぁ。それほどまでにこの映画には感動してしまった。

浅田次郎朝日新聞に連載し、大好評で書籍もベストセラーになっていたということで、これを映画化すればほぼヒットは間違いナシ・・・と思っていたのが、実際の劇場では大きく外したようだ。新聞や小説で感動していた人たちと、映画のイメージ、キャスティングに溝があったのであろう。興行収入でも2億程ということで、浅田次郎のベストセラーにこれだけのキャスティングをしたにも関わらず大コケということになってしまったようだ。

●タイトルがね『椿山課長の七日間』というのは映画としてちょっと魅力無さ過ぎなのだな。朝日新聞の連載時や小説という段階ではそれでも問題なかっただろう。中年以上の、浅田次郎ファン、その読者層には違和感ないタイトルだったのだろうが、映画として、特に小説を知らない人からすれば、なんだか西田敏行も出ているし「釣りバカ日誌」的な映画というイメージになってしまったのではないだろうか? 

●実際原作小説を知らない自分も、このタイトルから西田敏行伊東美咲のデコボココンビが会社の中ですったもんだやるコメディー映画だろうなと思っていた。そうこのタイトルからは余りに「釣りバカ日誌」的なイメージが出ていた。・・・・・だから、見る気がしなくて、ほったらかし状態であったのだ。

●色々と盛りだくさんのストーリーの中には、確かにちょっと変なところ、社会通念から言ってどうかな? という所もあったりする。不倫だとかヤクザだとか、まあそういうところだが、一回目を見ていた段階では殆ど気にはならなかった。これは見事なファンタジーであるからね。

浅田次郎の大ベストセラーの映画化ということで、原作の流れをあまりいじれなかったのだろうが、このタイトルとこのストーリーだと、カップルを含めた若い層は引くだろうし、原作ファンの中高年層もちょっと原作の良さと比べてしまって抵抗感があったのではないかな? 映画がヒットに繋がらなかったのはそういう要素があったからではないかと思う。松竹としてはこれだけのベストセラーにこれだけのキャスティングだからヒット間違いなしと思っていたのかもしれないが。(それにしては宣伝、PRなどはイマイチ目立っていなかったなとは思うけれど)

●これだけ素晴らしいストーリー、死んで蘇って来ると美人になってるとか、若返っているとか、そういう作りの面白さ、仕掛け。そしてラストの感動に繋がる伏線の張り方、このプロットをそのまま借りて、もう少し舞台を変えて、あまり不倫だとかヤクザだとかいうのは入れず、脚本をもう少し若者デートムービー的に作り直せば、リメイク作品として巧くいくのではないかなぁ?なんて思うのだがなぁ? このストーリーと仕掛けでハリウッドメジャーが洋画としてリメイクしたら当るんじゃないの? なんて思ってしまう。

●役者の演技も巧かったし、言葉を話さずに演技だけで気持ちを表すその演出も見事だったし、それを演じた市毛良枝志田未来は素晴らしかった。
志田未来って、演技が本当に上手い子役だね。驚いた。成宮も

●語り尽くせぬ位この作品には良いところが詰め込まれている。

●ヒットはせず、なんだかネット上でもあまりイイ事を書いていないようなのも多いようだが、自分としてはかなりの感動を貰った久々の作品であり、もう本当に驚きの一作であった。

●原作読まないとなぁ・・・これは。