『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』 

連合赤軍に絡んだ数々の事件、そしてあさま山荘立て篭もりの事件は、その強烈さ故、この時代、この事件をリアルタイムで経験し、驚愕した人にとっては、ある種の精神的なトラウマのようなものとなっているのではないであろうか?

●革命の名の元に、疑心暗鬼、自己欺瞞、自己中心、独裁となっていき、総括の名の元に若き同志を次々に殺していったその姿は、世界平和だ、人間の救済だなどという名の元に、信者を洗脳し、従わなければ殺していったオウム真理教にも繋がる。そこに時代の大きなうねり、社会変化の過渡期、政治の非民主性などがあったとしても、今、連合赤軍の所業と、オウム真理教の所業を横に並べれば頭を変えれば左右は呆れるほどに類似呼応しているのではないか? 

●浅はかな人間が、教条主義に染まり、自分の我が侭な思想や妄想を社会の為だなどと愚かにも高々と持ち上げ虚栄したとき、訪れる結末は似たような物に落ち着くのではないか?

●約40年前のあの時代、自民党が(今と変わりなく)民意など無視し自己の私腹を肥やし、国のためでもなく、その場の都合主義で国民の意思を無視して強行した採決、それに敢然と立ち向かったパワー。何万人もの大衆のデモ。その力は今では遠く羨むものである。

●20歳前後の大学生、それも文学部だ経済学部、法学部だというのでなく、医科大や薬科大の学生までもが革命を叫んで権力に抵抗した。高校生や、看護学校の女生徒、民間企業で働いていた社会人、子供を抱えた夫婦までもが、日本の在り方は間違っている、国を良くするためには立ち上がらなければ行けないと、革命を求めて赤軍の活動に参加した。それほどまでの大きな歴史の嵐があの時代に吹き荒れていたのかと思うと、それは今では想像出来ないほどの社会状況だったのだろうと思う。今の日本も、ふざけた政治家が自分たちの私腹は肥やしながら、大衆から税金を絞り取り、制度がなりたたないなどとほざいて税金を更に上げ、民意などどこにある?といった状態。1960年台と同じパワーが時代と大衆のなかにあったならば、今こそ同じ社会運動が起きてしかるべき状況ではないか? こんなふざけた政治がまかり通っている状況を革命という名の元にぶち壊し、再編する必要があるのではないか? だが、その萌芽はあの時代を境にして芽吹く前に摘み取られる状況となった。今あれだけのパワーをもった運動は・・・起こりえない状態に日本の国民は培養されてしまった。

●「俺たちはみんな勇気がなかったんだ」浅間山荘に立てこもったメンバーの中で、まだ未成年だった加藤元久の叫びが痛烈だ。これが連合赤軍への若松監督の総括か。そう、革命でも、自己批判でも、革命戦士でもなく、教条主義で借りてきた言葉を舌先で繰り返し叫んでいただけだったのではないか、そしてその借りてきた言葉の元に仲間を次々に殺していった。自己欺瞞が膨張し、誰も悲惨なリンチに非を唱えることが出来なかった、唱えれば自分が殺されるから・・・・勇気がなかったから。

あさま山荘に立て篭る連合赤軍のメンバーに母親たちが外部から説得を試みるその声を聞いたとき、涙が滲んできた。

●総括の名の元に行われたリンチ殺人。むごたらしい程の仲間の処刑。自分は「光の雨」を見たときに初めてこんな悲惨なことが実際に行われたのかと知った。今回の映画でもそのシーンの余りの凄惨さに腸が煮えくるような怒りを覚えた。総括を強要する森や永田に、総括を要求され縛られ、殴られるお前らは何故「貴様こそ総括しろ」と言わないんだ、なぜ周りは見ているだけなんだ、何故、森や永田に呼応して、総括しろ!と叫んでいるんだと・・・歯ぎしりする思いだった。

●特殊な状況の中で彼ら彼女らにはそれが出来なかった、その勇気が無かった、自己欺瞞、自己正当化を続け、殺人に加担した。その場にいた全員が卑しく汚濁し、腐敗した殺人者だった。

●総括の名の元に行われたリンチ殺人を、周りにいた仲間も自分が同じことをされるのを恐れて総括援助し、正当化していった。こんな小さな組織でも、権力を握ったものに抗わず、その発言に盲従し、事大主義、権威主義教条主義で自己防衛、自己保身をし、権力の立場にあるものの行為が、それが間違っていても見てみぬふり、自分は知らぬふりで従う。そうする自己を正当化する一人一人の様子。身の毛が立つほどの嫌悪感を痛切に感じた。

●いかに小さな少人数の集団であろうが、その集団の長としえ当てられた人間が間違った事をいっても、しても、それが間違いだと分っていても、長に同調し、間違いと確信することでありながらも非を唱えない、自分の身に火の粉が降りかかることだけを避ける。そうしている自分を正当化し、自己欺瞞の元に非に追従する。そう言った場面は幼稚園であろうが、小学校であろうが、高校、大学であろうが、会社という組織の中であろうが、人間が生活を営む中で頻繁に身近で起きている。それが、連合赤軍のように人を死に至らしめずとも。

●映画批評などという言葉で簡単にああだこうだ言うような作品ではない。映画というフォーマットを使ってはいるが、これは映画にはさに有らず。映画というシステムを使っているから観ることが出来、感じ、憤ることが出来るのだが、これは映画として他の作品と同じ範疇に入るものでもない。
極端な言い方をすれば、やはりプロパガンダか?

●それが大きな集団であろうが、数人の小さな集団であろうが、集団の中での権力というものを持った人間は、往々にして狂う。暴走し、間違いを冒し、自己中心的な考えを持ち、そして破綻する。そこに相対する抑制する力がないかぎり。政治でも会社組織でも、町内会でも、クラブ活動でも、どこでも同じだ。連合赤軍という集団も、権力を握った二人が狂い、そして周りもそれに盲従し、狂ったことを正当化し繰り返した。

●狂気ではなく、狂人になっていたのだと思う。

●だから、この映画は映画としては好きでも嫌いでもない、ましてや称賛も、非難扱き下ろしもない。ただ、重く、ズシンと心に鉄の杭でも打ち付けられるような、そういう作品である。

●劇場でパンフレットとしても販売されている「若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」 (単行本) を読んだ。仲間を殺し、あさま山荘に籠城し、無期懲役で服役している吉野雅邦からの書簡が掲載されていた。その言葉を読むと、こんな小さな組織の中で、20を過ぎたばかりの若者が、革命という名の元に、行為を詭弁して行く狂った指導者と、それに従わなければならず己も狂っていった自分、そして集団の事が記されている。

●1960-1972に至る圧倒的な時代の潮流のなかで、連合赤軍に関わる事件は、今でもそれを特別扱いし、特別視し、あたかもそれが貴重で、希有な精神のモニュメントの様に語っている、神棚に上げて大切に保存していこうというような雰囲気を往々にして感じる。だが、その時代をリアルに知らない自分からすれば、この事件は・・・狂った人間の、愚かで卑しく蔑むべき狂った所業であったとしか言えぬ。時代が必要とするパワーが間違った形で、間違った場所に吹き出てしまった・・・・それ故に、そのパワーは敗北してしまったということであろう。

連合赤軍、それは「若さの暴走」「錯誤」「暴走の集団化」「自己欺瞞」「自己正当化」「事大主義」「権威主義」「教条主義」の渾沌。
物事を取り違え、己で考えることを放棄し、他者のイデオロギーや権威を崇め、敬い、盲従し、そして歪み、暴走していった思慮が足りなかった若者の暴挙であろう。

若さゆえのひたむきさ、純真さ・・・・などと言う言葉で、美化も正当化も出来るものではない・・・・。

REFERENCE
若松孝二監督 『実録・連合赤軍』を観る 2007年7月3日 塩見孝也
http://homepage2.nifty.com/patri/column/2007_07_03_wakamatsu_movie.html

2010-05-12日記 『赤軍 PFLP 世界戦争宣言』