『ゆれる』 

●話題の中心はオダギリジョー、そして女性監督、そして真木よう子と、どちらかといえばそういった旬の役者と女性監督というところに注目が集まっていた作品である。

●渋谷や新宿などの首都圏では平日でもかなりの人が劇場に入っていた。(まあ公開規模はそれほど大きくなく、単館系であるから収容人数がすくないというのもあるが)

●一つの映画として、映画そのものでない部分であったとしても、ある部分から注目され、気にとめられ一人でも多くの人に観てもらえればそれはラッキーであり成功である、が。

●確かに、自分も女性監督という部分が頭の中にあってこの映画を鑑賞した。そして映し出される映像と、ちょっとした演出に「ほほう」と思うところが何ヶ所かあった。そのシーンは確かに特殊で、流しで映画を見ていても非常に気になって頭に残ってしまうシーンである。

●女性監督ということを知らなかったら「ふーん、この監督面白い演出するなぁ」と思っていただろう。女性監督と知って見ていると「ん、これは女性監督ならではの演出家」という風に見てしまう。つまりだ、何らかの形であっても女性監督ということでこの映画を観る自分の頭には特別なバイアスがかかってしまっている。それはバイアスといえばかっこ良く聞こえるが、悪い言い方をすれば偏見や差別観、特別視観、そういったものである。意識せずともそういった普通とは違うサングラスをかけつつこの映画は見てしまう。観られてしまう。

[印象に残ったというか、気持ちに引っ掛かったシーン]

☆走り去る車のウィンドーに手を伸ばすシーン。

☆冷蔵庫の中の野菜などを取り出したが、隠すシーン。

☆車のウィンドーに遠くを見つめるようなうつろな目の女性をとらえたシーン。

●殺された?? 家族側、お母さんなどの描写がほとんど希薄。「殺されるような娘だったんでしょうか?」の一言。それでも伝わるが、どの深さまで伝わるだろう? 自分の娘が殺されたというのに、その家族側の描写はほとんど皆無。死んでしまった女性に対する思いが増幅されない。死んでしまった女性に対する哀れみや悲しみが醸し出されてない。映画のストーリーの為にただ死んでしまった一つの物体のようだ。

●兄は田舎で煮え切らない、くすぶった生活を送り、自由に暮らす弟を妬んでいた........そういう兄の発言があるのだが、全然そういう悲しみや自分のふがいなさを感じさせる事前のストーリーがない。いきなりそんな独白をされても「へぇ、そうだったの」としか言い様が無い。弟役のオダギリジョーとの人生の対比はまったくといっていいほど描かれていない、だから兄の独白をいきなり持ち出されても同感も出来ない。同時に弟にもその軋轢を生み出した存在という意味を感じられない。

●裁判描写としてみるとなんとも浅い。「それでもボクはやってない」を観てしまったからだろうか?

●弟と兄の間に存在する、生き方の違い、そこから生まれる感情のズレ、確執、そして贖罪? そういったものを描こうとしていたのだろうと思うのだが、なんだか上っ面だけでズンと心を揺さぶるようなものではなかった。

●作品のクオリティーとしてはなかなかうまくまとまっていると思うのだけど..........。

●足りないのは何かを強烈に伝えようというエネルギー、情熱だろうか? 所々にぽつんぽつんと浮遊している技巧を褒め称えてもそれは映画という一つの塊を評価することとは別だ。

●語ろうとしていることは見えてきているのだが、それがヒラヒラと風に漂いしっかりとした形や思いをこちらに示してはいない。