『楢山節考』(1958)

●監督:木下恵介 主演:田中絹代 深澤七郎原作小説の最初の映画化(1983年カンヌ国際映画祭グランプリ「楢山節考」は今村昌平監督)

●歌舞伎様式を取り入れて撮影された”劇中劇”の形式となる作品。家屋、風景、自然物、道など全てをセットとして作ったのは実際のロケよりもお金のかかることであったであろう。丁寧に作りこまれたそのセットは監督、製作スタッフの気持ちの入り様、映画の映像を作ることに対する真剣さ、徹底さ、その力の込め具合が凄い。これだけの作り込みは並大抵のものではない。背景の照明の色を変化させて演出する感情。姥捨山に群がる大量のカラス。今であればCGでそれほどの手間も掛けずに作り出せるであろう映像も、多大なる労力を費やして作り上げられたのだろうと思うと、絵を見ていて繰り返し驚いてしまう。

●その昔、信州長野の貧しい村で実際に行われていたという姥捨て。長野の民話にもこの話は残っている。貧しい村が口減らしの為に、年老いた親を奥深い山に捨てるという行為を子供にさせる、それを正当化、合理化するために、歌に唄って意識の中に擦り込み、苦しまないで死ねるように雪が降る頃に山に捨てに行くのだとする。悲惨である。民話や民謡の中にはこういった残酷さを内在させているものが多いというが、その本来の意味するところを知ると身の毛もよだつような怖さを感じる。

●こういう昔の映画を観ていると、ホラー映画ではないのにこれはホラー映画だなと感じてしまうことがある。「砂の女」でもそう感じた。昔の映画がホラーなのではなく、今のホラー映画が、凄惨さや悲惨さ、おどおどしさを表現しようとすると昔の映画に近付いてしまっているのかもしれない。昔の映画が描いていたもの、昔の日本はその在りのままの姿が、今の目から見ればホラーとも言えるほどに、おぞましく、悲惨で、恐ろしい状態だったとも言えるのではなかろうか。

●1時間40分ほどの尺なので割とすんなり観る事が出来るかな?と思ったのだが、ストーリーは暗く、重い。大きな山場があるわけでもないし、話は淡々。お話しはだるい感じがあった。木下組が作り上げる映像の方にばかり目が行ってしまうというのもあるし。話の筋はもう分かってしまっているのでつまらなく感じたのであろう。しかし、親を捨てる子の気持ち、親なんかどうだっていい、役に立たない婆は早く山に行けと言う子も居る。文学でも映画でも家族というのは普遍的なテーマなのだが、そこには愛もあれば、家族であっても憎しみもあるという複雑な状況が存在する。父親を山に捨てに行く息子が、嫌がる父を簀巻きにしようとして谷底に突き落とし、その後で自分も谷底に落ちてしまうという場面は嫌な場面ではあるけれど、人間の恐ろしさ悲しさを感じさせるところで胸が苦しくなった。

●なんにしても、こんな凄まじい状況が実際に日本にあったということ、そしてそれを描いた凄まじい映画があったということ、それを今にして知って、体から力が抜けてゆくような感じである。今の映画とは全く異なる姿勢、思想で作られた古き時代の映画の在り方を知るにはやはり貴重な一作であろう。今村監督版もやはり観ておかねばなるまい。

●色々と考えさせられるシーン、場面、演出が多々あり、それを一つ一つ取り上げていたらきりが無くなるほどだが、とにかく、観終えてフゥーっと大きく胸に溜った息をを吐き出してしまったそういう映画であった。

●主演の田中絹代はこの役を演じる為に自らの前歯を3本自分を抜いてこの年老いた老婆の役を演じたという。凄まじい女優、役者として役を演じることへの徹底さ、執念である。その昔ロバート・デニーロが役を真実味を持って演じるが為に、体重を増やして太ったり、痩せたり、前髪を抜いて禿げ頭を作ったりということをしていてデニーロ・アプローチなどと賞賛されていたが、田中絹代のしたことを知ったら、体重を増減させたり、髪を抜くなど後で元に戻すことのできるデニーロ・アプローチなんてまだまだ安易な役作りの手法ではないか、田中絹代は女性でありながらも、二度と生えてこない前歯を自ら3本抜いて役を作ったのだから、その演じる為の執念にも似た情熱は驚き、ただただ平伏してしまう凄まじさである。

『楢山節考』(1983)今村昌平版 カンヌグランプリ作品
http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20100824