『絶唱』(1975)

●原作:大江賢治、脚本・監督;西河克己、撮影:萩原憲治

●三度目の映画化

●この辺りになってくると、西川克己監督作品も完璧に山口百恵三浦友和のアイドル映画だなという感じだ。

●戦時中の村社会のしきたり、身分、赤紙召集令状、復員、厳しい社会状況、苦しい生活のなかで育まれる身分の差を越えた愛、そして哀しい別れ。如何にもといった話の素材が並んでいる。ロミオ&ジュリエット的でもある。こういった話は万国共通の小説、映画のベースとして使われてきている。

●たぶん原作者の大江健治はそういったことを巧みに言葉で絡ませて、純愛映画のストーリーとして申し分のないものに仕上げたのだろう。3度の映画化というのも徴兵、戦争、身分違いの恋愛、死など、涙を誘う悲恋な話が観客受けもしやすい、映画化に丁度いい素材ということもあったのだろう。

●この映画は若々しい、山口百恵三浦友和の純愛ということで、最後は哀しい結末だが二人の愛を育むようすは爽やかで清々しくもある。しかしこの二人に焦点をあわせ過ぎているので、背景として描かれている招集、戦争、地主との身分の差、貧しさなどの描き方ははほんとうに付け合わせの如くでだ。

●アイドル映画として作られていたのだろうから仕方ないとはいえ、ベタではあるがしっかりとしたストーリーなのだから、二人の恋愛意外の部分ももっときっちりと描き、戦争の無意味さ、そこに息子や愛する人を取られる悲しさなどをもっとちゃんと描いていれば、名作と呼ばれる映画になっていたのではないだろうか。

●とどのつまり、この映画は大江賢治の小説を映像で描いたのではなく、大江賢治の小説は敷き板にしておいて、山口百恵三浦友和を描いた映画だと言えるだろう。

●仕事を離れ山で歌を唄う山口百恵の姿は清らかで美しい。ラストで死んでしまった小雪に紅を差し、花嫁衣装を着せて嫁入りするシーンもとても美しいし、ここは少しばかり涙腺が弛んだ。

菅井きん初井言栄大坂志郎などのベテラン役者の演技はやはり見事。山口百恵三浦友和の演技はどうにも下手でしっかり演技をしているのか、演技を指導しているのかと思ってしまう。この二人の演技は「伊豆の踊子」から段々と出演作を重ねているのに反して下手になっていっている。どんどんアイドル映画の度合いを強めて行くなかで監督の西河克己はしっかりと手の込んだ演出、情熱を傾けて感情表現をさせるというよりも、二人のアイドル映画なんだから適当にやっておけばいいさ、顏の映りさえ奇麗に撮っておけばいいさと、段々手抜きをして若い二人にしっかりとした演技指導も演出もせず、どんどん流しで撮影していったのではないだろうかと訝ってしまう。

●1975年当時、大人気だったアイドルの山口百恵三浦友和カップル出演映画を観たくて、中学生や高校生の女の子たちは劇場にいそいそと友達と一緒に向かい。最後の悲しいシーンで涙を流してたのかな? 劇場を出て友達と「良かったね、感動して泣けちゃった」なんて話をしていたのかな? 女子大生やOL、若い主婦などもこの映画を観て泣いていたのかな? 当時は人気アイドルの映画ということで女の子は友達とこぞって観に行ったのかもしれないけど、「あの時は感動して泣いちゃったけど・・・何となく流行に乗せられてたのかな?」なんだかそんな感じの映画じゃないだろうか。ちょっと前のSPEEDとかモー娘、今のAKB48の映画のようなものと同じで。

●「伊豆の踊子」(1974)、「潮騒」(1975)、「絶唱」(1975)は西河克己監督、文芸三部作と言われているようだが、文芸の匂いが漂っているのは「伊豆の踊子」だけである。製作年度を見てみれば、二年のうちに3作品「潮騒」と「絶唱」に至っては同年の公開。いかにも今人気のアイドルを使えば人も入るし儲かるから人気のあるうちにさっさと撮って金を稼げ的な製作をしたのだろうと思える。こんな短期間に続けて撮っていたら、じっくりと脚本も演出も練り上げるなんて出来ないだろうし、本当にどんどん兎に角撮れ、撮って公開しろ的な映画撮影がされていたのだろうと邪推も出来る。「伊豆の踊子」以後、作品の質がガクンと低下しているのはそういうった金儲け絡みの思惑が如実に作品に現れているということではなかろうか。