『20世紀少年 ー最終章ーぼくらの旗』

20世紀少年 第1章=思ったより面白い。キャラも巧く立っている。第2章に期待したい。
 20世紀少年 第2章=なんだ、新興宗教の話だったのか。これはもうだめかも・・・

と、思っていてもここまで観てきてしまったんだからやはり第3章も観ないわけにはいかない。いや、観たい。これも狡い宣伝戦略に嵌ってしまっているということになるのだろうが・・・しかし、第3章は別にレンタルされてからでいいや、映画館で観ることないやと思っている人はたくさん居るだろう。第2章があんな終わり方だったわけだし。監督が堤幸彦でなかったら自分も第3章を観ようなんて気にはならなかったかもしれない。

●流石にこの第3章に関してはネタばれは書きにくい。第2章の時に「結局この3部作で引っ張っている話は”ともだち”が一体誰なのか?ってことだけなのだ」と書いたこともあり、その唯一の謎を書いてしまうのは流石にご法度であろうし。

●最初に言ってしまえば、やはりこの3部作は 1章>2章>最終章と次第に尻すぼみ、期待からは外れていった。第1章でその後の展開に期待しすぎた感もないではないが。

●なにはともあれ最終章を見終えて思ったことは、世界中に殺人ウィルスをばらまき、何十万人もの人を殺し、世界支配をしていった”ともだち”の、その虐殺、支配の動機が全く持って見えてこない。いや、映画の中では一応その動機となったものも説明されているのだが・・・おい!そんなことがきっかけてジェノサイドを行い、世界征服を企て成功させたのかい? と言える程度のものだ。

●行われた行為の甚大さや恐ろしさにその動機がまるで付合していない、それどころかどう考えたって、それが動機とは思えないだろうという程度ものだ。

●こんな恐ろしいテロ行為を行い、世界征服を成し遂げるような男ならもっととてつもなく偏向した特殊な思想の持ち主だとか、狂人的な性格だとか、特別な頭の良さだとか、なにかもの物々しい異常さを内在させていて、それが非人間的な行為に走らせる糸口となるというのが一般的な筋だ。何もストーリーを一般的に持っていく必要はないのだが、”ともだち”が行った恐ろしい行為にはそれに至る恐ろしい思考も動機も映画の中ではこれっぽっちも見えてこないのだ。

●高尚な世界革命だ社会革命だ、ダメな政治家を全部潰すんだというような理由もなく、かといって”ともだち”が自分の権威欲、支配、征服欲が非常に強く歪で、それを満たすが為に大量殺戮を行ったというものでもない。だらか最後まで”ともだち”ってなんなの? なんの為にこんなことをしたの?という極めて自然な疑問がまるで明白にならない。

●三作通して、こんな恐ろしい行為を行うに値する人間の葛藤がまるで描かれていない。いや描かれてはいるのだが、それが子供の頃のいじめや仲間外れにされたことだというのだから腰が砕ける。それがこんなおぞましい行為を行う動機になりうるというのか?

●最初の糸口とはなる可能性はあるにしろ、そこから派生して大人になってもそれをトラウマとして持ち続け、さらなる何か大きな問題や事件を引き起こし、それが徐々に積み上げられて大量殺戮の動機となるというのならばもう少しは”ともだち”の行った”行為に至る理由”が分からないでもない。だが、そういったことは描かれていない。

●子供のころの虐めの経験がどのように変化し、大きくなり、教祖となって世界征服まで企むようになったかという過程が全くないのだ。子供のころの虐めから、一気に新興宗教の教祖になり大量殺戮を行っているのだから、途中がまるで端折られている。だから”ともだち”が新興宗教の教祖になり大量虐殺をおこなうその動機が理解できないし、その感情を理解することができないのだ。

●ケンジやオッチョやユキジなどの子供の頃の仲間が”ともだち”を倒そうと一致団結するのは、自分たちが書いた”よげんの書”の通りに事件が起きているという事に対する責任という理由があるのだがこれとて子供遊びの延長上にある子供の理由レベルだ。

●第1章で”ともだち”に対して立ち上がった所までは良かったのだが、第2章、第3章では”ともだち”に対する怒りや憎しみというものがあまり表だって表現されておらず、なぜ命をかけてまで彼らが”ともだち”に立ち向かうのかというその動機がこれまた強烈には感じられないのだ。

●宗教的な教義に染めて人を洗脳し、殺人ウイルスを全世界にばら撒き、何十万人もの人の命を奪い、世界征服までした悪の団体とそれを率いる人物に対して、はらわたが煮えくり返るような怒りを人々が持ち、そんな世界を元の状態に戻そう、独裁者を独裁政権の座から引きずり落とそうと若者らが立ち上がり、仲間の死や、困難を乗り越えてついに独裁者を倒し、人間の自由を取り戻す・・・というのがこの手の話の基本線だ。だがこの20世紀少年では”ともだち”に対する怒りや憎しみは観ている側が同じように怒りや憎しみを感じるようには作られていない。

●人が死ぬシーンもTVゲームでバッタバッタと人が血を吹き死んでいく映像と同じで、そこに感情を揺さぶるものが無いのだ。そう、この映画はまるで無感情なTVゲームそのものだ。”ともだち”を倒すために立ち上がった人々の怒りや憎しみも薄い。薄いというより観ていて殆どその感情が登場人物に滲み出ていない。観る側に伝わってこない。これは明らかにTVゲームの感覚、描かれ方だ。TVゲームでどんなに人を殺しても、キャラクターが怪物に殺されてもそこに可愛そうだとか怪物が憎いだとかという感情を持たないのと同じだ。この映画の映像は感情を持たない流れるただの絵と化している。

●結局この映画は新興宗教の世界支配やウイルス散布による大量虐殺、洗脳、人類滅亡など恐ろしい題材をたくさん扱っていながらも、完全にお遊びの映画なのだ。エンターテイメント作品としては流石の堤演出でなかなかに面白く飽きさせない作りなのだが・・・・扱っている題材がエンターテイメントにそぐわないものばかりなのだ。殺人教団も、人の死も、ウイルスばら撒きも世界征服も、ちょろっと語られるような事象ではないのに、この映画の中ではすべて単なる動く絵のパーツであり、感情を持たない絵だ・・・・そこに強烈な違和感と拒絶感が生じる。

●「娯楽映画なんだから楽しければそれでいいじゃない?」という声もあるだろうが、この映画はこれだけ深刻な題材を物語の中心に置いておきながら、そこに対する主義も主張もなにもないのだ。人類虐殺や新興宗教団体の世界支配、人民統制などを、ダメだとも、こんなんじゃいけないともまるで言っていない。観る側も演出のノリに流されてそういうことを全く考えないままただストーリーを追いかけるだけの鑑賞になってしまう。

●原作漫画もこの映画も、”ともだち”が誰なのか?という謎解きを延々と伏線を張ってそれを少しずつ解明していって、最後に種明かしをするという技巧を見せることに終始し、そのために用いた題材やモチーフに関してはまったく真剣には考えていない。ただのTVゲームの一キャラであり、ラーメンの具としてしか使っていないのだ。

●結局この映画は何を言いたかったの? いや、何も言うつもりなんかなかったのだ、TVゲームの映像を延々と見せられているだけなのだ。

新興宗教が人を洗脳して大きな団体を作り、教祖がその支配者となることにも、オウムのようにウイルスをばら撒いて大量殺戮を行うことにも、世界を征服して人間の自由を奪ってしまうことにも・・・この作品はなんら関与しようとしていない。それがいいともわるいとも言っていない。”ともだち”がやっていることとケンジやカンナが戦っていることは・・・・子供のケンカにしか見えない。全人類の敵である悪の組織と戦っているなんてようにはまるで見えない思えない。そしてこの映画には言葉で言っている大それた事(人類を救うんだとか色々あるけれど)に相応する登場人物の”熱意”が全くない、感じられないのだ。だから妙な映画になっているし、自分としては見ては面白かったが、それだけで何も残らない、何も影響されない、ただ紙芝居のお話を聞かせれただけという感想しか残らない映画だ。

●エンターテイメントなんだから楽しければそれでいい、そんな小難しいこと言って何になる? 映画を観る、楽しむ一つのスタンスとしてそれはそれとしていいであろう、一つの見方、感じかたとして認めるが・・・少なくとも自分は、この映画、原作は、よく考えれば物凄い矛盾や欺瞞、ご都合主義を巧く演出で塗り固めて問題意識なんて欠片もない単純な見世物にしてしまった良くないスタイルの作品ではないだろうかと感じるのだ。

●柔道の言葉で「勝負に勝って柔道に負けた」というのがあるが、この映画は演出、展開などの映画のテクニックとして優れているが、その中身、映画が伝えるもの表現するものという点で、映画という存在の本質部分で映画そのものに大きく負けていると言える。映画ビジネスでは興行も成功し勝ったと言えたとしても、映画そのものには完全に負けているのだ。(いや、勝負をしようともしていないのかもしれない)映画に対峙していないのだ。

●釈然としない、これだけ何も訴えず、何も主張せずただ単にお遊びとしての映像娯楽に思い切り振り切っていながら、それが扱う題材が娯楽として扱っていいものとは言えない。なんら感情移入をさせずに流しの映像として使っていいものなのか、そういったことをヒタヒタと感じている。

●世界を破滅から救った達成感も、高揚感も、沢山の人をウイルスから守った誇りも映画の中から、登場人物からまるで感じられない。

●エンドロールが重ねられた野外ライブのシーンまで観たとき「地球を、人を一人でも多く救うために野外ライブ? なんて表面的な映画を作ってるんだろう」と思ってしまった。原作者や監督がロック、バンド好きだからとはいえ、このライブのシーンはあまりに蛇足だ・・・ここがイイと言っている人もいるようなのだが、あのライブはそれまでのストーリーのなかから遊離している。無理やりあてつけたライブシーンのようだ。原作者と監督が作りたかったシーンかもしれないが、話の筋からすれば取って付けている感が否めない。ストーリーの重たさにも対応していない。

平愛梨は映画のなかでヒロインとしてもっと羽ばたき輝くかと思っていたのだが、役が思ったより小ぶりであり、ストーリーを引っ張る力は弱かった。これは脚本にも要因があるが。

●第2章でいい感じだと思っていた小泉響子(木南晴夏)も今作ではまるで飾り物になり目立つことも輝くこともなく沈んでしまっていた。カンナと同じく物語のキーを握る登場人物だとかいってなかったか?あの人もこの人もとキャラクターを詰め込みすぎなのだ。

●やたらと古くノスタルジックな風景、小物などがたくさん出てくるがこの映画の鑑賞層である20歳位の人にはそれがなんなのか分からないのでは?

●やたらと「ともだち」という言葉が飛び交い、「僕とともだちになってくれない?」という台詞も幾度となく出てきたが、それこそ今から数十年も前の子供たちって「僕と友達になってくれない?」なんていう言い方はしなかったんじゃないだろうか?そういう友達つくりのアプローチをするのは家の中ばかりにいてゲームばかりしているような今の子供なんじゃないだろうか? 昔の子供は友達になろうなんて言って友達になったのではなく、一緒に遊んでいるうちにいつの間にか友達になっていたのであり、それが友達だなんて意識もしてなかったんじゃないか。ガキの頃は友達がいっぱい欲しいなんて思ったことも無かったが、いつだってそこらじゅうに誰かがいたんだから。棒と原っぱでもあれば充分に遊べたんだから。

●結局”ともだち”は幼い子供遊びの延長線上にしか思考はなかったということになる。ガキの遊びが高じて教団をつくり、ウイルスで何万人もの人を殺し、世界征服をして・・・これはもう呆れる意志、思想の設定だ。

スプラッター系やシューティング系のTVゲームで人がバンバン殺され、プレーヤーは殺し、それを延々と繰り返しストーリーとしているものが多々あるが・・・この映画も同じ並びにある。

●観ているものは”ともだち”が誰なのかという謎を知ってしまえばそれでおしまいなのだ。それまでの過程はゲームでステージを一つ一つクリアしていくようなもの。あれこれと張られた伏線を頭のなかで整理し、最後に”ともだち”が最後に分かってしまえば、それでゲーム終了。そして映画としては全てが瓦解する。

●付け足されたかのような最後の10分で、3部作中ではじめて心の葛藤や悩みを映画の中で描いていた。ここがあるからといってこの映画が救われるわけではないが、こういった気持ちの揺れや葛藤をもっと随所に入れて登場人物を深堀し、一人一人にもっと気持ちを寄せられるような話にしていたらもっともっとイイ映画になっていただろうに。

●これは将来にわたってワースト映画、ワーストシリーズと呼ばれることになるのではないだろうか?

<9月3日追記
他の映画評などをつらつらと読んでいて、自分が言葉を選りすぐれず長々と書いていることを端的に言いきっている文があった。
「物語の結末だけを並べている映画」・・・確かにそうだ。最終章では”ともだち”の正体だけではなく、あれもこれも第1章、第2章で出てきたエピソードの結果、結末だけがずらずらと並べられている。
結局この3部作は、1と2であれこれ物語の始まり、きっかけ、端緒を並べ上げ、それがどうなるのかと期待させ、最終章でその答えだけを3時間近く羅列していった映画だ。物事の始まりと最後の結末だけを見せていて、途中のなぜそうなったかの過程が殆ど全く描かれていないのだ。だから話しに深みも感動もなく、すかすかのTVゲームのような映画になってしまっているのだ。