『すずめの戸締まり』最後の戸締まり、終映。再度観て感動がより大きくなった。

2022年11月11日に公開された「すずめの戸締まり」が、半年に及ぶロングラン上映を経て、2023年5月12日~27日の期間に「最後の戸締まり上映」と銘打った特別上映が行われるという。そして27日が終映。

 

もう一度観てみたいと思った。

 

一回目は予備知識なしで観て、311を描いた作品と知り震えるほど驚き、途中では目を閉じてしまう場面もあった。でも、ラストに向かって走り抜け語られる言葉に、大きく感動した。

 

今回の二回目は一回目よりも冷静にしっかりとスクリーンを見つめる事ができた。

改めて思う。この作品は後世に残り語り継がれていく傑出した映画になるだろう。

311を描いた映画、TVドラマ、作品の中で、この「すずめの戸締まり」が最もあの災害を語り、一番に悲しまれた人の心に寄り添う作品となるだろう。

二回目を観て、感動は更に大きくなった。

 

辛口批評で書いているブログだが、「すずめの戸締まり」に関しては、大甘の大甘で、

文句なし!最高に素晴らしい!と言っておこう。

 

PS

舞台あいさつで聞いたトリビア

鈴芽が震災で流されてしまった生まれ故郷の家の跡地に辿り着き、開いてしまった後ろ戸に鍵をかけて戸締まりをするラストシーン。

あの時の戸の鍵穴はツバメの形をしているのだとか。(鍵を回す方向もそれまでと逆だとか)

そして、鈴芽の母親の名前は椿芽(ツバメ)・・・

最後に「いってきます」と言って戸締まりをするあの戸は亡くなったお母さんへの思いでもあったのか。

監督は作品のなかにスクリーンで見たのでは気がつけない様々な思いを入れ込んでいる。

この映画は久しぶりにBDのソフトを買ってしっかり見たいと思った。

 

最終興行収入結果 公開198日間で動員1115万人、興収147.9億円

 

youtu.be

『すずめの戸締まり』10年経って、今だから伝えられる鎮魂の思い。

全くこういう映画と想像していなかった。

新海誠監督とはいえ、なんとはなしに「天気の子」から続くような最近のパターン化した女子高生のチャラチャラ恋愛系アニメだろうと思っていた。
 
だからあまり観ようという気も起きなかった。
 
中学生が観に行ったよと言ったので、どうだった? と聞いたら「なんだか難しくて面白くなかった」という予想外の返事。
 
難しかった。。。? 
 
そしてはじめて知った。この映画が自分の持っていた先入観とはまったく違うものだということを。
 
よもやこれがあの大震災を描いた作品であるとは思いもしなかった。
 
そして固唾を飲み込むようにしてスクリーンに対峙した。
 
ここまであの震災を描いているとは思わなかった。
 
あの震災と津波火災の恐ろしさを無闇に強調するような表現はない。あの災害を目の当たりにし実際に経験した人への作者としての繊細な配慮が感じられる。
 
火災で町中が燃え上がっているシーンはあった。実写作品ではなくアニメーションであるから、ある程度あの災害の悲惨さは映像的に弱められているだろう。同じシーンを実写CGIで化していたらかなり厳しい映像になっていただろう。しかし、それでも随所に描かれるあの震災、あの津波災害、そしてあの大火災の場面は息を呑み歯を食いしばってしまうものだ。
 
「覚悟して観なければいけない」
 
実際に震災を体験した人の言葉だ。
 
 
 
基礎だけが残された家の跡。建物が何もなくなって広い野原になった場所。道を行き交う復興車両のダンプカー、建物の上に乗り上げた漁船。そう、それは震災から数カ月、数年経った頃の風景だ。ストーリーの流れから言っても、どちらかといえば震災と津波被害の後の姿を表わしているシーンが多い。
 
それが却って、なんとかして少しでも日常に戻ろうとしていたあの頃の気持ちを思い起こさせる。
 
土砂を積んだダンプカーが列をなして壊れた道路を走り、粉塵が舞い上がり、埃っぽくむせぶ毎日。そんな日々が何年も続いていた。いつになったら終わるんだろうと思っていた。
 
こんな作品とは思ってもいなかった。キツさもあった。でも、再び起こりうる災害の端緒を閉じていく、治めていくという話はこの災害大国に生きる日本人がいつも、ずっと祈り続けている、神様の御業に対する願い、神様への切なき祈りなのではないかと感じる。
 
文句なしに良い作品であった。心を揺さぶられる作品であった。
 
今この作品であの震災を描く新海誠の器量に打たれた。
 
「みんなもっと生きたかったんだ、もっと生きていたかったんだ」
 
すずめが最後に泣きながら話す言葉。

それは、当時は伝えられなかった言葉。伝えたくても、そう思っていても慰めや思いやり、優しさの言葉ですら心に打ち込まれる釘となるあの状況では言えなかった言葉。

あの大震災から11年が経って、多くの亡くなった命に、大切な人を失ってしまった残された人の心に、今だからこそ伝えられる、今だからこそ言える、言っておかなければならない言葉。
 
それを伝えたい。今はっきりと伝えたい。
 
この映画は、あの大震災でなくなった多くの命に対する鎮魂の作品なのだな。
 
長く語り続けられる貴重な日本映画だ。
 
 
 

 追記

君の名はのときは1年以上前にトレーラーが公開され、隕石が雲を突き破って落ちていく映像に衝撃を受け、公開を待ち遠しく思った。

続く「天気の子」も大ヒットした「君の名は」に続く作品として期待度が高かった。

しかし「すずめの戸締まり」は公開直前まで大きなプロモーションはなかった。だから、あれ新海作品がまた出るのかと知ったのは、ひと月ほど前だった。

--------ごちゃごちゃ ごたごた言う奴等が出てくる。

作品のテーマ、内容の重さから言って、この映画を事前にプロモーションするのは難しさがあったであろう。そもそもこういう題材をモチーフにしたものを商業ベースで儲けのために宣伝するということ自体が憚られる。(と思っていた)

恐らく作品が公開される前にあれやこれや言う輩が出てくるだろう。

それはそのまま作品の前評判に響く。(これもビジネスという意味でだが)そんなものを呼び込むくらいなら公開直前まで内容は伏せておいたほうがいい。君の名はのときのような周到なPR戦略を組まずとも、3年ぶりの新海誠の新作と言うだけで耳目は集まる。もう取り立てて特別なことをせずとも世の中は注目する。劇場に多くの人が足を運ぶであろう。
もう新海誠という名前はそれだけ充分な人を集める力を持っている。

だから、あえて公開に先行するプロモーションは行わなかった、行わないほうが宣伝戦略的に良かったということであろう。

そして、それはとても良い結果に結びついた。

内容の素晴らしさが口コミを呼び、この作品も興行収入100億を超え、全世界でも公開された。

控えたPRが最大級の効果を生む。その点でもこの作品は素晴らしい。



 

『ジャスティス リーグ (ザック スナイダー カット)』ラストが蛇足

2017年の劇場公開版からもう5年か。

 

4時間OVERの超長尺だけど楽しめたね。

 

それにしても劇場公開版とここまで違うとはなぁ。

 

撮影時にどれだけテイク重ねてたんだろ。撮影シーンを組み合わせたら5本位別バージョン出来るんじゃないのかね。それも全く別ストーリーで。

 

全体的にDCのシネマティックユニバースは失敗したという感じだが、この暗さだとそれもさもありなんという感じ。

 

それにしても、ラストシーンはなんだあれ。

せっかく気持ちよく終わった思った映画を最後にぐしゃぐしゃに握りつぶしてしまっている。

 

いかにも追加した感のあのラストがなければ良い映画だと思うのだが、あのラストのせいで全部台無し。

 

 

『007 ノータイム・トゥー・ダイ』どんどんちゃちいSFになってる。

スペクターのプロフェルドが監獄の中から眼球に仕組んだ装置で世界中のスペクターと交信し指示を出していたって。ありえん設定だ。

サフィンが作ったウィルスが特定のDNAだけ攻撃するナノロボットだ。ありえん設定だ。

遥か未来を描いたSF映画ならそういう設定を受け入れてもいいが、007シリーズは紛いなりにも現代が舞台。。。話が噛み合わないのだ。


プロフェルドにしろサフィンにしろ、どうやったらあんな巨大な巨悪組織を作れるってわけ? 007とMI6には国家の後ろ盾があるが、この二人にはそういう物ないでしょ。だからぜんぜん嘘っぽくて怖さが感じられない。

現実社会が舞台なのに余りに現実離れした脚本設定。それがこのところの007シリーズの大欠点。

まあそれでもそこそこの興行収入叩き出すんだから、大したもんだけど。

まともに観る映画じゃなくなってるな007シリーズは。

2009-01-13『007/カジノ・ロワイヤル』やはり凄い。最高級の映画を味える喜び。

2009/01/13『007/カジノ・ロワイヤル』(再見)

2008-04-19 『007/カジノ・ロワイヤル』 

2013/05/02 『007 スカイフォール』ダメダメ

『007スペクター』面白いが相変わらずのテキトー脚本。

ダニエル・クレイグの007は『カジノ・ロワイヤル』『慰めの報酬』までは良かったが『スカイフォール』で、余りにご都合主義の脚本に呆れてしまいもういいや、という気持ちになって次を観ようという気持ちが萎えていた。

それでもまあ、シリーズ物というのはやはり通しで観ておきたいなと言う気持ちが湧くもので、もう2015年の公開から7年も経つけど観てみることに。

冒頭の死者の祭りでの長回しは流石に凄い。

でも、その後の話の展開が。。。

まあ、もうネット上にはあれこれ批判も書かれているようなので、自分更に書く必要もなさそうだが、余りに酷い部分を一つだけ書かずにはいられない。

砂漠のクレーターにあるスペクターの基地、あんな大爆発させといて(ギネスにも登録された世界一の爆破シーンらしいが)なんでスペクターが生き延びてる? 死ぬでしょあの爆発なら。それがなんの説明もなくまたピョロンと出てくるってどうよ? 片目が負傷しただけで? あの爆発の中に居たら全身大やけどどころか黒焦げになってるというのが普通の感覚。

前作の『スカイフォール』でも超ご都合主義の展開があれこれあって興ざめしたが、今回もそれに続くいいかげん脚本だと思うな。

ボンドガールがボンドと懇ろになるのも余りに簡単、短絡的過ぎるし。

ツッコミどころが多すぎてもうなんと言うか。

そういう所をあまり気にせずに観れば、そこそこに楽しめはするんだが。

しかしなぁ、最近の映画、そのストーリー、脚本でいわゆる主人公や登場人物の動機というものがあまりに陳腐で噴飯してしまうようなものが多い。

今回のスペクターにしろ、父親が養子にしたボンドを自分より可愛がるからそれ嫉妬して逆恨みして。。。その結果が世界的犯罪組織なわけ? そんなのが世界の情報を掌握してMI6をも崩壊させようとする巨大犯罪の動機なわけ? そんなファザコンがなんで巨悪組織のボスになってるわけ? そのそもそもの話の設定が軽薄短小というしかない。だから、スペクターも恐ろしい相手という感じがしなくて「なんだこいつ」程度に思えてしまうのだな。

そういえば、シン・エバンゲリオンも人類補完計画だ、サードインパクトだ、ゼーレだネルフだとさんざん風呂敷を広げまくっておいて、結果はその元となったのは単なる碇ゲンドウの超稚拙なマザコン的わがままが事の発端だったというなんとも軽薄短小な種明かしでこれまで20年以上も引きずってきた話を収束させた。これも拍子抜けどころじゃなかったが。

まあ、あれもこれも、その程度の作品ということか。

映像の世紀バタフライ・エフェクト「ヒトラーvsチャップリン」

新しい映像の世紀 新シリーズであるバタフライ・エフェクト。なぜか映画をかなり取り上げている。

昨日の番組ではヒトラーチャップリンが題材となり、チャップリンの名作「独裁者」を元にして番組が構成されていた。

ロシアがウクライナに軍事進行している今の情勢で、この番組はかなり踏み込んだ内容であった。

チャップリンの言葉

「一人を殺せば殺人者。百万人を殺せば英雄になる」

「100年後、再び独裁者は現れるだろう」

100年を待たずしてプーチンという愚かな独裁者が現れた。

悍しき現実。

『トップガン マーヴェリック』これぞハリウッド、映画の王道を魅せしめる本物の一作

堂々たる映画の王道を突き進む、これぞ映画、これぞ本物のハリウッド、紛い物のない純粋無垢、これこそ正真正銘の映画だ!と自ら胸を張って観客に魅せつけてくるような、そんな映画だった。素晴らしい。

とにかく、この映画に関わっているスタッフとその技術、技量、全てが超一流。それこそ映画界の超一流、選りすぐられたトップ中のトップが集結して作られた映画!正に、この映画に関わる、この映画を作り上げた人々の集団こそがハリウッドの、映画界の《TOP GUN》なのだな。

練り上げられた脚本の素晴らしさは言うまでもない。緻密で精巧で寸分の狂いもないほどに計算された映画の設計図が素晴らしい。

しかも、余計な情報や伏線、今の脚本にありがちなお宝探し、なぞなぞのような狡い仕掛けはほとんどない。過去作へのオマージュ的なものがいくつか入っているが、それが本筋のストーリーを邪魔していない。濁していない。極めて抑制的に使われている。

そもそもそんなお宝探しは映画には必要ないのだ。映画は本筋のストーリーで勝負すれば良いのだ、ちゃちな小細工など邪魔だ。そう、そうあるべきなのだ。

2022年、1986年の第一作公開から36年という長い時間が流れた。平日昼の回なのに劇場には結構人が入っていた。驚いたことにその多くが、おそらくもう仕事も退職して年金生活をしているであろうなと思われる70歳を超えるような人たちだった。

この人たちが第一作のトップガンを観たのは30歳を越えた辺り。日本がバブルに向かう成長期にバリバリと仕事をし、週末に恋人や奥さんと銀座の映画館にトップガンを観に行っていたのだろう。その時を思い出しながら、もうめったに足を運ぶことのなくなった映画館に来たのだろう。そして映画館でもう一度あの青春の日の思い出を心の中に湧き上がらせていたのだろう。

劇場が明るくなったとき、外へと続く通路を、背筋を真っ直ぐにのばし歩いていく着飾った一人の女性が自分の前に居た。その人は白髪の初老の女性だった。
しっかりとした足取りで、胸を張って、とても満足気で誇らしげで、素敵な笑顔をしていた。

この年齢の女性が、一人で映画館に映画を観に来て、そして昔を思い出し若かったころを思い出して、心を生き生きとさせて帰っていける映画。36年ぶりの「トップガン マーヴェリック」はそういう映画でもあるのだな。

そして、36年前には生まれてもいなかった今の20代、30代の世代にも間違いなくこの映画は感動を与えている。

親がこの映画を観た年齢に育った子が、この映画に親と共に感動している。それを思うだけで、なんて素晴らしい映画なんだろうと涙が溢れてしまう。

ケニーロギンスの歌も36年前の曲なのにまったく古臭さがない。これっぽっちもだ。その辺が洋楽の凄さでもあるな。

戦闘機のシーンはもちろん凄いけれど、自分は映画冒頭の極超音速機でマッハ10を超えるシーンが最もよかった。カッコよすぎた。宇宙ではなく、地球の空をあの宇宙的な飛行機が超音速飛んでいくシーンが最高にカッコよかったな。

この冒頭の話の流れ、マッハ10の壁を破ること、超音速飛行機の計画が中止になるということ、これって「ザ・ライト スタッフ The Right Stff」へのオマージュかな。

ライトスタッフではアナログの速度計の針がガタガタ揺れながらマッハを超えるシーンが印象的だったがこの映画ではデジタル計になっている。最後にパラシュート脱出するシーンなんかもそっくり。

サムシェパードが演じるチャックイェーガーもカッコよかった。そのサムシェパードも今はもういない。天国でこの映画に拍手を送っているかも。

まあとにかくなんにしても、素晴らしい映画だった。

こんなに純粋に感動出来る映画も本当に久しぶりだ。

これは歴史に残る正真正銘の映画になるであろう。

PS. Lady GaGaの歌うテーマ曲も最高!

核基地の攻撃の仕方・・・なんか、まんまスターウォーズ EP1 のデス・スターアタックなんだけど。同様にハングマンのあの現れ方、あれってルークの乗ったXウイングが帝国軍のTIEファイターに照準を合わされ、もはこれまで、と思った瞬間に颯爽と現れるミレニアム・ファルコンに乗ったハンソロのあのシーンだな。ちょっとこの辺りはSWのいいとこ模倣しすぎでは? オマージュというレベルを超えちゃってる。パクリに近いんじゃない?




『シン・ウルトラマン』粗粗だけど、面白かった。驚きいっぱいの脚本に◎

どうかなぁ・・・と訝りながら観たが、面白かったね。

ウルトラマンという作品の素性もあるが、今までの庵野作品とちがって、絶望だとか破滅だとかなんかそういう系ではなく、夢や希望、温かさのある話になっていたのが嬉しい。

ウルトラマンが自己を犠牲にしてまでも地球の人々を助けてくれる。その自己犠牲の気持ちがグンと心に響く、それがウルトラマンの一番素晴らしいところであり、シン・ウルトラマンはそこを見落とすこと無く、しっかりと映画の真ん中に据えてくれた。だから自分はこの映画が好きだな。

よくもまぁ、こういう脚本を書き上げたものだ。

映画は何がなくても先ずは脚本。ダメな脚本ではどれだけ良い監督が撮ってもいい映画にはならない。良い脚本であればダメな監督が撮ってもそこそこいい映画になる。その典型とも言える。そして、脚本の次に大事なことはキャスティング。そこも定石を踏み外していない。

そして、TVシリーズの思い出深いところがあちこちに挿入されている。これもまた、庵野ならではといったところだろう。

業界に巣食うアホなプロデューサーなんかであれば、おそらく確実に「一番知名度が高くて人気があるのがバルタン星人なんだから絶対バルタン星人を使ってください」とか言うだろうな。

しかし、この映画でザラブ星人メフィラス星人なんていう、TVシリーズを詳しく観ていないと分からないマイナーな異星人を使うとはこれもまた庵野らしさであろう。この選択は素晴らしいとしか言いようがない。

TVシリーズを観ていなくても充分にこの映画は楽しめるだろう。でもやっぱりTVシリーズを知っている方が圧倒的に楽しさは倍化する。

昔、リアルタイムにTVでみていなかったとしても、ウルトラマンに憧れTVシリーズウルトラマンを観て感動した人が観たなら、シン・ウルトラマンは「おお!」「ああ、それそれ!」「ここでそれを使うのか!」とスクリーンを観ながら拳を握りしめて、悶絶するかも。

 

また、さらに良いのは、サウンドなのだな。TVシリーズウルトラマンで耳に残っているあれやこれやの、あの音たちが効果的にシーンに組みわされ挿入されている。音だけでも相当に楽しめる。(これも、知らなかったらなんとも思わないだろうなぁ)

それにしてもなぁ、まさか地球どころか太陽系までを破壊する最終兵器がゼットンとは・・・庵野脚本恐れ入る。そのゼットンの音が・・・やはりTVシリーズを知っていないとあそこで身震いはしまい。

ゾフィーがなんとなくゾフィーらしくない姿で登場。(名前はゾーフィーらしいが)それに恐れをなしてメフィラス星人が逃げる・・・どういうことだ? となったら、ゾフィーが地球を消滅させるという。ええ、どうしてゾフィーウルトラマンを救って地球を守ってくれる兄のような存在だったのでは? シンウルトラマンゾフィーは地球人にとっての敵になるのか? 悪役なのか? と恐れ驚くが・・・まあ、脚本はうまくまとめてくれていたな。

でもなぁ、最後はきっとTVシリーズのように、ゾフィーが2つある魂をウルトラマンに与えて生き返られせくれると思っていた。ずっと「そうなれよ」「そうなるはずだ」「そうならなきゃ」と祈りながらスクリーンを凝視していたが、その祈りは叶わなかった。こういう終わり方にするとは・・・。

 

なんだかんだ言って、今までの庵野作品とはちがって、夢や希望がある元気づけられるような映画であった。

それは何よりもウルトラマンの自己犠牲の気持ち。自分の命を捨ててまでも地球を守りたいという心。そこに涙するわけだ。

まあね、昔からウルトラマンシリーズを悪く言う人というのはほとんど周りにいなかった。ウルトラマンは究極の善だったのだ。(タロウあたりまでは)その基本はこの映画の中でも守られていた。それがまた嬉しくもある。

 

さてと、次の庵野作品は「シン・仮面ライダー」か。

なんだか、昔の憧れの特撮ヒーローや怪獣作品がどんどん庵野によって、庵野一人だけによってリブートされて行くのもちょっと癪に障るというか、腹立たしい。過去の名作が全部庵野で置き換えられてしまうじゃないか、という不満もあるのだが・・・。

 

それでもなぁ、おそらくかつてのTV SFシリーズのファン、怪獣映画のファンなどが、そう容易に口にはしないだろうけど・・・おそらく、おそらく、庵野作品のシン・シリーズを観ている多くの人はこう思っているのではないだろうか・・・いや、自分も強くそう思ってしまう。シン・ウルトラマを観終えた後も直ぐにその思いが頭に浮かんできた。

 

たぶん、皆が思っていることは・・・

 

庵野による・・・

 

伝説巨神イデオン」の復活!!

 

じゃないかなぁ・・・・。

 

 

 

『ぐらんぶる』ほんとに中身ゼロ、でも嫌いではないなぁこれ。

夏の海、夏の浜辺、夏の砂の感じ、そういったものが画面から感じられるな。

撮影場所の空気が良かったんだろう。

 

もうまったく中身のない映画。ラストも「なにこれ? なんでこれで終わるの?」という感じ。でも、画面のなかで不安とか悩みとか(はあるか)そういうものゼロパーフェクトで騒ぎまくる登場人物達には見ていて笑いがこみ上げてくる。

 

なんか、コロナだ、高齢化社会だ、消費税増税だ、となんでもかんでもお先が真っ暗に見えるようなこの時代。もう政治家どもと官僚どもは全員消滅させて、イチからガラガラポンとやらないとこの国はどうにもならないんじゃないかって気がする今。

こんなノーテンキな映画を見るとホッとするな。

 

80年代とかバブルの頃ってこんな感じだっただろう。そしてそんな雰囲気は二度とこの国に訪れないだろうし、そういう雰囲気をこれからの若者も味わえることはないのだろう。

まあ、そういう重いことを考えるのはヤメにして、ノーテンキな映画はノーテンキに観るのが1番であろう。

 

石川恋は綺麗なんだけど、どうも出る作品が良くない。そろそろ演技力をもっと磨いてシリアスな作品に出演してもらいたいな、1ファンとして。

『スターウォーズ9 / スカイウォーカーの夜明け』環は完結した。Circle is completed 収まるべき鞘に間違いなく正しく収まってくれた。

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20世紀フォックスを買収し、ルーカスフィルムを傘下に治めたディズニーが、抜いてしまったスターウォーズという剣、ディズニーにはその剣は扱えなかった。

スターウォーズを映画の1つの素材としてしか考えていなかったディズニーにはスターウォーズ愛する人、映画ファンの心は理解できなかった。

 

外資系ではよく断りの文句としてこんな言葉が使われる「あなたとはカルチャーが合わない」と。アップルのスティーブ・ジョブスなんかも相手を拒絶する常套句がこれだった。

 

そして、ディズニーとスターウォーズは見事なまでにカルチャーが合わなかった。

 

カルチャーの合わないものが巧くやれるはずがない。だがそのずれた溝をなんとか修正し、スターウォーズを本来あるべき場所に戻してくれた、一度抜いてしまった剣をしっかりと正しく本来あるべき鞘に戻してくれたのがJJエイブラハムであろう。

 

レイがライトセイバーを炎の中に投げ込もうとしたとき、ルークが現れて言う「ジェダイの武器にはもっと敬意を払うべきだ」と。これはそのままJJがライアンと『最後のジェダイ』に向けた慙愧の言葉だろう。

 

『最後のジェダイ』の冒頭からルークはレイの差し出したライトセイバーを放り投げてしまう、その後も気高きジェダイの騎士を否定してしまうような描写が繰り返される。『最後のジェダイ』が今にしてこれだけ批判を浴び続けているのは監督であるライアンが「ジェダイに対する敬意を持っていなかった」せいなのだ。だからあんな作品になってしまった。ライアンはスターウォーズを理解していなかった、映像的には素晴らしいものであったが「最後のジェダイ」はシリーズ中で最低の烙印を押される作品として残ってしまったのだ。

 

JJがこの作品を撮らなかったら、スターウォーズの物語は崩壊していたかもしれない。JJがこのエピソード9で崩れかけたスターウォーズをなんとか元の鞘にもどしてくれたのだ。

 

スターウォーズスターウォーズ愛する人の元に、ファンの元にもどってきた。これでいいんだ。斬新な展開、はっと驚くような新しいストーリーなどもういらない。「エピソード8/最後のジェダイ」でグサグサに壊されてしまったスターウォーズを最後に元の姿に修正してくれたのだ。

 

それが今回の「エピソード9/スカイウォーカーの夜明け」なのだ。

 

観終た時点で大きな感動はない、だけど「よかった、これでよかったんだな」という安堵感はあった。

 

ディズニーによる新三部作で迷走しかけたスターウォーズという物語が、1974年に始まった44年にも及ぶ1つのサーガがなんとか形を保ったまま終わってくれた。

 

それは正に『環は完結した。Circle is completed 』というEp4のダースベイダーの言葉なのだな。

 

I am your father.

そして

I’m Rey Skywalker.

ルーカスが創り出したスターウォーズの世界は完結した。

 

ディズニーはこの先、スカイウォーカー家の物語とは全く別のスターウォーズシリーズを計画しているという。しかもその監督がライアン・ジョンソンだという・・・止めてほしいなという気持ちだ。

『JOKER ジョーカー』スタイリッシュに描かれる狂気。しかしジョーカーは極悪ではない。描いた狂気はジョーカーではなかった。

バットマンにおけるジョーカーは極悪非道、悪の権化、とにかく頭の中から爪先まで悪の塊・・・ずっとそんな風に描かれてきた。

 

そしてこの映画も言ってみればそういう極悪非道を全面に押し出した映画であろうと想像していた。

 

しかし、それは全くの予想外の作品であった。

 

まさか、ジョーカーをこう描くとは。練りに練ったその先でこういう形にジョーカーを持ってくるとは・・・驚きである。そしてハリウッドの底力をひしと感じる作品でもある。

 

まったく奇をてらわぬシンプルでストレートな脚本。つまらぬ伏線やわざとらしい驚かしもない。

 

そして、そのシンプルな脚本をスタイリッシュな映像と音楽でまとめる監督の力、創造力。

 

観客に媚を売らない、小手先のしみったれた過剰演出もない。本物の脚本、本物の映画というべきか。

 

この映画はジョーカーの極悪な狂気を描いているのではない。人を殺す、それも惨殺する、その形は狂気だ。しかしこの映画が見つめさせる先にあるのはジョーカーの狂気ではない。こんなジョーカーを生み出したゴッサムティーの政治であり、支配層であり、それを包括する社会そのものだ。

狂気を生み出したのは社会、人間の強欲や妬みが生み出した社会だ。狂気を生み出しながら平静と良識の仮面をかぶった偽善者たち、その側にすり寄る守銭奴たちだ。

ジョーカーやジョーカーが属する側は、搾取され貶められ蔑まれ卑下される。悪いことなどなにもしていなくても。

この映画はジョーカーの狂気を描いているのではない、ジョーカーを狂気に貶めた社会の狂気こそが悪なのだと暗示している。

 

映画を観ていてハッっとしたシーンがあった。そしてそのシーンにこそこの映画の一番大切な、重大な意味が込められているのではないかと思えた。

 

警察に捕まりパトカーに乗せられて連行されるジョーカー、街にはピエロマスクの暴徒が溢れ出している。

ジョーカーを乗せたパトカーがひっくり返り、ジョーカーもそのパトカーに閉じ込められる・・・しかし、そのジョーカーを救ったのがピエロマスクの暴徒達だ。

 

暴徒の一人がパトカーから這い出そうとしているジョーカーに手を差出す・・・その手がスクリーンいっぱいにアップに映し出される・・・そう、差し出されたその暴徒の手、その手だけがスクリーンに映っているのに、その手には愛とか優しさが滲み出していた。ジョーカーに差し出された手に凶悪さも何もなかった、その手から感じられたのは聖母のような優しさだった。

ただ差し出された手なのに、言葉や顔よりも何よりも強く大きな愛と優しさがあの手に映し出されていた・・・。

 

映像の極み。

 

映像に乗り移る監督の心

 

あのシーンこそが、この映画の核心だと言えるだろう。

 

 

 

『スターウォーズ/最期のジェダイ』

☆☆ネタバレあり☆☆


・待ちに待ったスターウォーズ EP8の公開! 事前の情報、予告編などから想像していたことはすべていい意味でひっくり返され、期待にそぐわぬ素晴らしい作品に2時間33分スターウォーズの世界にどっぷり浸かって、物語を堪能! 目の前のスクリーンのなかで片時の別世界を味わえた。文句なしの満点だ、100点満点、映画映像としても極めてハイレベルなところに達している。人が絵をどうみたら、どういう角度でどういう配置で並べたら最も効果的に臨場感や恐怖感を味わえるかという点も極限まで計算されていると言えるだろう。そのくらい映画としてのできが良い。・・・だが、観終えて時間が経つに連れて・・・気持ちが少しずつ変化してくる。確かに素晴らしい映像、脚本の作品だ、だがそれ以上のなにか、満点を超える何かが無いかもしれないと。

・脚本は練に練られている。物語の整合性に疑問がでないように、きっちりとした話の理由付けが明確になされていて「あれ?」とか「ここおかしいんじゃない?」と観ていて思うようなところはほぼなかった。」(後から何点か思いつくところが出てきたが) ストーリーの流れもほとんどひっかりがなくスムーズだ。上映中も上映が終わっても「うーん、これは隅々まで感覚が行き届いた実にクオリティーの高い映画だ」「拾にスキがない、なんて密度が高く、がっしりと四ツに構えた映像の集合体なんだろう」とほぼ陶酔状態だったのだが・・・しばらくすると、だんだんと魔術が解けてくるように何かが足りない気持ちが沸き上がってきた。

とりあえず一回観ただけなので記憶が不確かだったり、間違えてとらえてしまっているところもあるかもしれないが、気になるところを、気に入った所を羅列しておくとしよう。

☆《ヨーダの造形に泣けた!》
前作『フォースの覚醒』では監督のエイブラハムがSW過去作へのオマージュ、回顧に走りすぎているという批判があったが、長らくのスターウォーズ・ファンとしてはそれはそれでワクワクドキドキしてとても良かった。ハン・ソロとチューバッカがミレニアム・ファルコンに戻ってくるシーンは感涙ものだったし。崩れ落ちたスターデストロイヤーや、AT-ATスノーウォーカーが画面に出てくるたびに歓喜した。
《 2015-12-22日記 『スターウォーズ/フォースの覚醒』SWファンにとって最高の傑作 》
今作では前作で批判も受けた懐古主義的な部分は少なくなっているという話を聞いていたが・・・なんのなんの、所々にファンなら喜ぶ旧作SWのセリフや映像がさりげなく散りばめられていて、なかなか憎い作りであった。そんな中で1番良かったのはヨーダの登場シーン。CGIの技術は格段に進歩していて、もはやどんな映像でも作れないものはないという状態であるのに、今回のヨーダ−はなんとその最先端のCGIで「エピソード4帝国の逆襲」に出てきたマペットヨーダ−を復活させているとは・・・監督たちのこのこだわり、この意識には敬服するね。作品の時系列を合わせる意味でもヨーダはEP4-6よりもさらに年齢を重ねているのは分かるのだが、あの1970年当時のマペットの風貌、動きをそのままに再現させているとは・・・お見逸れしました。EP5そのままに、杖をつきながらよちよち歩きをするヨーダ。新三部作のEP1-3でありったけCGIを使ってあのピョンピョン素早く目にも止まらに速さでライトセーバーを振り回すヨーダには驚いたが、ちょっとやり過ぎという感もあった。それが今回はなんとでも動きを作れるはずのヨーダをわざわざマペットのぎこちない動きに合わせて作っている。ここにはスターウォーズへの愛を感じるなぁ。そしてヨーダがルークと並んで遠い空を見上げるシーン。見事にEP5の若きスカイウォーカーとヨーダの並んだシーンへのオマージュ。こういうところにSWファンとしては嬉しくて涙が出てしまう。

☆《完璧なまでに美しい配置》
バージョンアップしたAT-M6ウォーカーのなんともカッコよく強そうで恐怖感のあることあること。AT-ATスノーウォーカーのデザイン上の弱点、足の弱さなどを見事に取り除いてまるで強靭な猛獣の如くにしあげている。並んで登場するシーンは画角、配置ともベスト。小津安二郎の人間、道具の配置へのこだわりのように、この登場シーンはそれぞれの位置関係、観客からの視点など徹底的に計算されて場の雰囲気を作り上げている。このシーンは素晴らしい絵であり写真だ。

《全然動かないスターデストロイヤー》
なんでもかんでも大きく、大きくすればいいってもんじゃないと思うが、今回の作品でメガ・スターデストロイヤーというやたら横にただ長いだけのような全長60kmとかいう設定の巨大艦船が出てきた。たしかにデカさに凄いなぁとは思うのだが、これただ浮かんでるだけ。そしてもっと悪いのは、いままでのシリーズで帝国軍の圧倒的な力の象徴でもあったスターデストロイヤーが相対的にちっちゃくなってしまって、後ろの方にこれまた浮かんでるだけ。ほぼ戦闘、攻撃にも参加してない。「なんだよ、スターデストロイヤー全然動いてないじゃないか」とスクリーンを観ながらイライラ憤り。今回の作品からファースト・オーダー・ドレッドノートなるスターデストロイヤーの2.5倍、19kmもある新艦船も出てきているということだが、メガ・スターデストロイヤーがでかすぎてこのドレッドノートもまるで目立たず。というかこういう馬鹿みたいにデカイ船をわざわざ設定しちゃったために、旧3部作のEP4冒頭で、あのスターデストロイヤーがドーンと出てくるあの巨大感にのけぞって驚いた体験がちゃかされてしまった。正直意味なしというくらい大きさだけを強調した今作品の船艦のせいで、過去の作品が持っていた素晴らしい映像体験やイメージまでもぶち壊してしまったといえるだろう。これはSWファンとして声を大にして非難する! 

《ポーグはただのおちゃらけキャラだったのか》
可愛らしい姿で公開前から注目されていたポーグ。ファルコン号でチューイと一緒にコックピットにいる映像などからも、このちっちゃくて可愛いキャラがどういう力をもっているのだろう。チューイと一緒にファルコンを操ってなにかもの凄い活躍をするのだろうか? などと想像していたら、ただ単に可愛いだけのおちゃらけキャラだった。重力がかかって窓にぎゅ〜っと押し付けられるシーンだとかは笑えたが、完全にディズニーのキャラ売り戦略の部品というだけだったとは。もうフィギアやぬいぐるみを売るためだけに追加したキャラという魂胆がミエミエでどうしょうもない。それとも次回作でなにか活躍するシーンでも加えられるのかな? そうでないとあざとすぎるもんな、このキャラは。それでもイウォークやジャージャービンクスよりは良いって? 確かにそうか・・・・(-_-;)

スターウォーズに燃料切れの話はダメダメだろう》
宇宙の話はねぇ、色々あるけけど、それをやっちゃいけない、それは当然のこととして受け入れた上で観てないとどうしても辻褄合わなくなる部分は出てくる。1番はっきりしてるのは爆発の音。宇宙じゃ音しないでしょ、ドーッカーンとかね。でもそれは目をつぶって見てるわけだし、音がしなかったら映画としてやはりつまらない。(キューブリックは音を消したけど)、同じくこんな巨大船艦で食料はどうしてるの、水はどうしてるの、空気は・・・そして燃料は?? イオンエンジンは、ハイパースペースドライブは・・・いろいろ未来の技術が開発されて現実世界のように燃料に煩わされることはほぼなくなっているという仮定の上で宇宙物の映画をみんな見てるわけで、燃料どうしてるんだろう、こんなに飛べるはずないだろう、嘘だ!と言ってしまったら全部話が台無しになってしまう。だからそういった現実世界的な制約は取り除かれているとう仮定でSF映画はみんな観ているわけなのに・・・燃料がもちません、後何時間でなくなります・・・ていうのをストーリーにいれてしまうのは、大大大失敗、失策なのだけどねぇ。監督や脚本家はこれだけ素晴らしくまとまったストーリーを作り上げたのに、その部分は気が付かないのか? それとも話を作り上げる発想力が足りなくて、つじつま合わせで燃料不足をもちだしたのか? 何にしてもダメダメ。

《ハイパードライブで敵艦に神風アタックもダメだろう》
これも、今回やっちゃったら、今までだって危機に陥ったときにただ撃ち落とされるんじゃなくて、ハイパードライブで突っ込めばスターデストロイヤーもやっつけられただろう・・・と思うよねぇ。ホルド提督がカミカゼアタックでメガ・スターデストロイヤーに突っ込み爆破するシーンは少しウルウルきたけれど。

ハイパースペース・トラッキングシステム》
ハックス将軍が「奴らに紐を付けておいた」とするハイパースペースを超えても相手を追跡出来るというシステム。これに対してフィンとローズが「奴らの追跡システムを破壊するのよ」というのが物語の大事な筋になっているのだが・・・なんで、追跡されてるって分かったら、本体の追跡システムを壊そうということになるのか? 相手の追跡システムを解除しない限り、永延に後を付けられてしまうと考えるんじゃなくて、普通に考えれば自分たちの居る船に何か追跡システムに信号を送る装置が付けられている、それを探して壊そうと考えるでしょ。つまり発振器、ビーコンがどこかにあるって考えるのが当然なんだけど。。。sらにおかしいのは、レイには居場所がわかるようにビーコンを持たせてる・・・ハイパースペース超えてルークの居る星にいってるのに?? んー、もうこういう部分でで突っ込み所満載なんだよなぁ。いや、全体的に脚本の出来は素晴らしいのだけれど、サラーッと見ていると粗にはあんまり気が付かないんだけど、よく考えると、監督や脚本家達が“よく考えていない”ところがあれこれ見えてくるんだよなぁ。大体にして30年以上前の設定となる『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』でオビワンが逃げるジャンゴ・フェットのポッドに追跡用の装置を投げつけてくっ付けるシーンがあるじゃない。てことは、ずっとまえからそういうシステムは出来ていたんじゃないの? とか言いたくなるんだよね。

コードブレイカーの話は伏線が回収されていない》
マズ・カナタがファーストオーダーの暗号破りはこの目印を探せ!といって示した花のバッジみたいなやつ。カジノでその目印を付けてた奴はあれ、誰なの? デル・トロ扮するDJが実はあの目印を付けてるやつにだまされて監獄に入れられた、というなら話もまあ繋がるが、あの目印に関しては映画のなかで結局何のお話もなし。伏線がまるっきり回収されず投げ捨てられてる状態。今回の映画公開版は上映時間153分と現状でも長尺だが、監督のライアン・ジョンソンが完成版から50分近くをカットして劇場公開版にした、未公開部分はブルーレイに収録するなんてことを言っているので、ブルーレイになったところで、あれこれつじつまの合わないところや、なんかここが変だという部分が分かってくるのかもしれない。それにしても、2時間33分もありながら話として???と疑問に思った所が何箇所かあるので、この劇場公開版はディレクターズカットじゃなく、短縮版という扱いになってしまう可能性もある。ロード・オブ・ザ・リングのときも同じようなことやってたな。これもソフトを売るためのあざとさに思えるが。
いきなり出てきたけどマズ・カナタが「労使交渉やってるんだよ」といって銃撃戦してるのはちょっと笑った。マズ・カナタも不気味な老女じゃなく、なんかヨーダ的なウケ狙いキャラにしようとしてるのかもしれないが。

《毎度のことだがシスってあっさり殺られる》
ファーストオーダー最高指導者スノーク。フォースのダークサイドを使い手、シス。だけど・・・あっさり殺されるよなぁ。それだけ強いのに、人間の心も読めるのに・・・。真っ二つにされるというのはお約束をきちんと踏襲してるが、それにしてもなんかあっさり過ぎ。でも考えてみれば、EP1でのダース・モールもあっさり、あれぇ〜という感じで真っ二つ、いとも簡単に殺られた。ドウーク伯爵もあっさり首を落とされるし、絶対勝ち目なさそうだったパルパティーンは反応炉に突き落とされて死んじゃうわけだし、シスじゃないけどグリーパス将軍も、もの凄い強いという話だったのに、オイオイというような情けない殺られ方で死んじゃったし、スター・ウォーズに出てくる悪の皇帝やら支配者、将軍・・・なんか邪悪でもの凄い強そうな設定なのに、ぜんぶあっさり殺られてる。(ダース・ベイダーだけは例外?)ことさら今回のスノークの殺られ方って、余りに簡単すぎないか? なにが最高指導者でなにがシスなの、どこが邪悪でどこが強いの? と思わずにはいられない。

《レイは一体どうして強いフォースを持っているのか》
カイロ・レンがダークサイドに堕ちるきっかけとなった話は巧く出来ていた。ルークがその原因だったとはかなりの驚きであり衝撃的であった。しかしなぁ、ダース・ベイダーの息子であるルーク、双子の娘の子だから孫にあたるベンことカイロ・レンで、カイロ・レンがルークを押しのけてジェダイ寺院を崩壊させるほどのフォースを持っていると言うのはイマイチ納得がいかない。母親であるレイアがダース・ベイダーの娘なのだからスカイウォーカー家の血筋を引いているとしても、母親も父親であるハン・ソロジェダイにはならなかったし、レイアのフォースが特に強かったというわけでもないんだが。そしてそれ以上になぜレイは他のだれよりも強いフォースを持っているのか? この点に関してはなんら答えが示されていない。レンとレイの会話ではレイが両親から見捨てられたただの娘だという話レイがするわけだが。カイロ・レンとレイの会話のシーンです。カイロ・レンがレイに「お前の両親は何者でもなく、ジャクーでガラクタを回収していた夫婦ですでに死んでいる。お前は見捨てられたのだ」と衝撃の事実が告げられたが、じゃあなんでレイはあんなに強烈なフォースを持っているのか? 

ハン・ソロは本当に死んだのか?》
これもまたレンとレイの会話でだが、レイが「あなたは父親を殺したのよ」と言ったところでレンが「本当にそうおもうのか」というようなことを言っていた。ん??? 確かに「フォースの覚醒」でハン・ソロライトセーバーで体を射抜かれ、船艦の底へと落ちていくのだが、実際に死んだ様子の描写は一切なし。葬式もなし。でもレイア将軍が夫であるソロの死を感じたような部分はあった。でも完全に死んだという描写はなかった・・・さてここもどうなるのか?

《ルークのホログラムはダメでしょ》
もうさぁ、あれをやったらなんだってオッケーになってしまうじゃない。( ´Д`)=3 それとラストでレジスタンスの指輪を付けた子供がフォースを使うような場面があり、次回作への希望につながっていくようなシーンがあるが、なんかこれもわざとらしく、よくよく使われてきたような子供っぽいシーン。まるでディズニーの子供向け冒険物語的な終わり方だ。

[:W316][:W309]

と、ここまで書いてきたら、否定的な所感ばかりになってしまった。この作品を観終えたときには「凄い完成度だ、スキがない、凄い映像だ」と溜息を付くほどにどっぷりスターウォーズの世界に取り込まれ、凄い凄いと感嘆し、かなりの満足感に浸っていたのだが・・・時間が立つに連れて、いろいろなシーンを振り返って考えるに連れて、どんどんと疑問や不満、納得の行かないところが出てきた。

映画の完成度は高い、でも何かスターウオーズ的でない変なものを感じる。商業主義、ディズニーの金儲けの道具的になった部分も大いに感じる。少なくともこれは絶対に言えることだが・・・

「帝国の逆襲」を超える最高傑作!・・・というのは違うな。

当初に予想していた展開は見事にほとんど外れた。カイロ・レンがまるで母親であるレイア将軍を攻撃するかのような予告編の作りや、ポスターで示されたダークサイドに落ちたようなルークの姿も、言ってみれば全部ブラフでありあったな。まるで思っていたこととは違った驚きの展開だったし。でも、その驚きとスター・ウォーズでこれまで感じてきた驚きはちょっと違う。やはり「帝国の逆襲」での「私はお前の父親だ」に勝る驚き、衝撃は無い。自分が映画に求めているものの一つである「やったー!」という爽快感、感動、気持ちよさというものは残念ながらなかったといえるだろう。改めて思い起こすと今までのスター・ウォーズ・シリーズのテイスト、雰囲気から少し違う方向に映画が向きを変えている感じがする。それが次のエピソード9でどうなるか? 新たな3部作まで作られるということなので、ディズニーにしてみればスター・ウォーズはやはり最大のドル箱であろう。

公開から今日で一週間。アチコチに書かれている考察、感想、批判、賞賛などを読んでいると、一回の観賞では分からなかった、とらえきれなかった細かな部分を色々と説明してくれているサイトも多々あり、凄いなぁと思う次第。もう少しあちこち読んだり見たりしてから、年内にもう一回観賞しようかなと考えているところ。但し、普通なら二回目は日本語吹き替え版で観賞するのだが、日本語の予告編やCMなどで観るとどうも今回の吹き替えはレイの声にしても喋り方にしてもなんとも軽薄で脱力してしまう雰囲気なので、二回目も字幕で見るかもしれないな。